第1話 少女は何も知らぬ故。


 ―――そんな森での一幕から数日ほど。



「はぁ…」


 広場の片隅にある切り株に腰を下ろして、少女は茫然と空を見上げた。お昼ご飯の後に訪れた空虚の中で、考えることはたった一つ。


 だが、それは一旦置いておこう。


 先ずは、今日に至るまでの然程長くない経緯を振り返ってみる。


 怪物に襲われ命の危機に瀕していたところを、偶然通りがかった青年に助けられた少女。彼女はその後、近くにあった集落へと連れられて、そこに住んでいる”彼の知り合い”から、この世界での生き方を教わった。


 少女は何も知らなかった。


 この世界のことはおろか、自分がどんな存在であるのかさえ。


 だというのに、その集落の人々は全く驚きも疑いもせず、さも当然のように彼女を仲間の一人として迎え入れてくれた。


 いや、きっとのことなのだろう。


 自身に対する彼らの態度、そしてこの数日の間に聞いたこの世界についての話を思い返して―――『コモモ』、つまりはコモドドラゴンの"亜人"、”アニマルガール”、もしくは”フレンズ”と呼ばれる種族の少女はそう考えるようになっていた。



 ……だけど、そんなことはどうでもいい!



 あの時、自分のことを助けてくれた青年。彼がコモモをこの集落へと送り届けて、その翌朝にまた出掛けたきり、数日間ただの一度も姿を見せていないことが彼女は心配で堪らないのである。


 彼女が考えるたった一つのこととは、に他ならない。


(彼は、元気にしているでしょうか……)


 彼の姿を思い出すと、胸がきゅっと締め付けられる。

 この感情をどう表現すればいいのか、彼女はまだ知らない。


「む、何をボーっとしているのですか」


 そんな風に此処に居ない人に思いを馳せていると、横から声を掛けられた。


「博士。……いえ、なんでもありませんわ」


 コモモに話しかけたのは、”博士”と呼ばれた少女。髪や衣服は全体的に薄灰色の色合いで、頭にまあまあなサイズの羽が生えたシルエットが特徴的。見れば分かる通り、彼女も普通の人間ではない。


 "アニマルガール"や”フレンズ”と呼ばれる、不思議な少女たちの仲間だ。


 そんな博士はコモモの返答を聞いて、安心したように頷いた。


「そうですか? まだ混乱することも多いでしょうから、分からないことがあれば遠慮せず、我々に相談するのですよ」

「うふふ、ありがとうございます」


 右も左も分からないコモモにとって、博士もまた非常に頼りになる存在だ。気になることがあって尋ねれば、大抵のことは教えてくれる。その代わりとして、よく取るに足らない雑務を押し付けられてしまうのだが。


「しかしそのように暇なら、これを向こうに運ぶのです。私は散々運んで疲れてしまったのでね」


 そう、ちょうど今のように。


「いいですよ、どうぞお任せください」


 博士は抱えていた木箱をコモモに渡した。ジャガイモがぎゅうぎゅうに詰め込まれた箱はずっしりと重く、運ぶのを嫌がることも頷ける。しかしコモモは嫌な顔一つせず、それを指示された場所まで持っていった。


「よいしょ…っと」


 ドスン。

 箱を地面に置くと、重厚な音が周囲に響く。


「ええ、お疲れ様なのです」

「……ついて来ていらしたんですね」


 仕事を押し付けておきながら、放っておけはしなかったらしい。


「お前がちゃんと運べるかどうか、見守ってやらなくてはならないのでね。助手の手が空いていれば、おしつ……おほん、任せられたのですが」


 博士はコモモから目を逸らし、でっち上げたような理由でよく口を回す。その弁舌を耳にすれば、わずかに顔を出した本音も見逃してやりたくなるというもの。


(もしも立場が逆だったら、も同じことを言っていそうですね)


 コモモはそんなことを思う。


 この集落には”助手”と呼ばれる、『毛並みが茶色になった博士』のような少女も住んでいる。博士と助手、大まかに二人の性格は似通っている……と、ここ数日に交わした会話からコモモはそう思っている。


「……お、この音は」


 博士の耳がぴくぴくと動く。


 ひょいと飛び上って正門の方を確かめると、戻ってきて言った。


「コモモ、大いに喜ぶのです。の奴が来たのですよ」

「えっ!?」


 彼の名前を聞いて跳ねたコモモ。


 博士はあわあわと戸惑い始めたコモモをさらりと掴んで持ち上げて、空伝いに彼がいる方へと彼女を運んでいく。突然のことにコモモは空中でじたばたと暴れ始めたが、共々地面に落ちては適わぬ。博士はぎゅっと脇の付け根を締めて、コモモの動きを黙らせた。


「ほら行くのです、早くしないと見逃してしまうのですよ」

「いえ、あの…」

「隠さなくとも、お前の態度は分かりやすいのです」


 レクトの近くの地面に下ろして、背中をとん。


「さっさと行け、ですよ」

「は、はい…」


 このようにされては最早引っ込みもつかず、諦めと恥ずかしさを湛えた表情でコモモは前を見る。レクトと視線を合わせると、出所の分からない熱が血液に乗って身体を巡る。


 そして少しの躊躇いを飲み込んで、口を開いた。


「レクトさん…」

「よ、元気にしてたか」

「は……はいっ! あなたのおかげです!」


 だが一転。

 ひとたび言葉を交わしたら、急にコモモは元気になった。


 煮え切らない恥ずかしさは踏んづけ切れないアクセルの裏返し。つっかえが取れれば、抑え込んでいた反動が今度はブレーキを機能不全に陥らせてしまう。


 コモモはレクトの両手をぎゅっと握り、キラキラと目を輝かせる。


「っ…」

「えへへ」

「……まあ、なによりだ」


 突然の行動に驚いて後ろに退きそうになるレクトだったが、ぐっと反応を小さく抑えてコモモに笑顔を投げかける。


 コモモは止まらず、更に言葉を続けようとするが。


「わたくし、助けられてからずっと、あなたのことを考えていて……!」

「ストップなのです。レクトが困っているのですよ」

「あっ…!?」


 レクトの後ろ、建物の扉から出てきた茶色い毛並みの少女に制止され、はっと正気に戻ったようにコモモは飛び跳ねながらレクトの手を離した。そして顔をかあっと赤らめて、慌てて手でその色を隠す。


 暴走と総称すべき少女の情緒は、まるでジェットコースターのように加速と減速を繰り返す。


「えっ、えっと、ごめんなさい」

「別に気にしなくていいさ」


 ここまで来るとレクトがコモモに向ける視線も微笑ましいものを見るようなものに様変わり、笑って流しながら次に助手の方へと向き直る。


「それで、調査の方はどうだったのですか?」

「ああ。それについての報告は、エピリさんと一緒に聞いてほしいな」

「……ですね。その方が効率的です」


 そのまま二人は建物へと入っていく。


 しかし助手がふと振り返ると、そんな彼らの背中を――特にレクトの背中を――どこか物寂しそうに見つめるコモモの姿があった。


「はぁ…」


 助手はレクトの肩を叩き、コモモを指して言う。


「レクト、彼女も同席していいですか?」

「この子もか? まあ、悪くはないが」


 不思議そうな顔をしつつも頷いて、レクトはエピリなる人物が待つ奥の部屋へと一足先に向かう。


「助手さん、ありがとうございます」

「全く、手間のかかる新入りなのです。ですが、アプローチの方はちゃんと自分でやるのですよ」

「えっ、それってどういう…?」

「……あぁ、には気付いていないのですか」


 呆れたように肩を竦める。


「まあいいでしょう。これから時間は沢山あるのですから、ゆっくり向き合うがいいのです。レクトにも、自分自身にも」


 そんな助手の言葉はまだコモモには伝わっていないが。彼女がそうするまでもなく、いつか自ずと知ってしまうだろう。


「部屋はこっちですよ。ついてくるのです」


 しかしまだ何も知らぬ故。


 きっと今はただ一歩ずつ、その歩みを見守っていくしかない。

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