逃げ水は毒を呑む。

RONME

第1部 蛇は溺れて、水に堕つ。

序文 『出会い』

 ―――そうして毒は浸みていく。止めどなく心身を侵してゆく。


 初めは何もなくとも緩慢に、その毒性に気付かぬ間に身体の隅々へとゆっくり行き渡り、時間を掛けて心臓から指先の血管に至るまでを掌握し、彼の身体の在り様をこれ以上なく我儘に独占する。


 その末に、弱みを突いて牙を剥く。

 甘い退廃をぶら下げて、嚙み付かざるを得なくする。


 最後の毒杯を傾けさせる。

 味わわせる。

 吞み込ませる。


 そんな一つの喜劇。


 屹度、それはとても気持ちの良いもの。

 嫌になるほど、甘美なもの。


 そんな致命的な服毒の切欠。

 運命の交差点。


 彼と彼女が巡り遇い、深き愛の果てに輝きで世界を沈める物語は、あの黄昏に始まった。



 ……そう。



 それは、仄暗い森の中での出来事。




§



 冷たい緑の叢を駆ける一人と一頭。


 先頭を走る少女は獲物であり、それを追う怪物は捕食者である。


「ふっ、はぁ……えいっ!」


 四足歩行の怪物に追われている彼女は、その背後を狙う怪物の凶牙を尻尾で必死に跳ね除けていた。そうしながらまた走り出す。疲労と恐怖に凍えてしまいそうな脚を無理に動かして。


 額には冷や汗が、表情には困惑の色が浮かんでいる。


「本当に、どうして…ッ!?」


 この原っぱでいきなり目を覚ました彼女は、近くにいたあの一ツ目の怪物に訳も分からず襲われ続けているのだ。


 何故自分はここにいるのか。

 あの怪物は一体なんなのか。



 そもそも―――自分は誰?



 嗚呼、皆目見当もつかない。

 唯々、逃げ続ける他にない。


 目が覚めてから、きっと長い時間が経った。


 こうしている間にも日は落ちていく。底なしの恐怖を呼び起こす暗闇が彼女の足から伸びていく。その影が怪物の身体に掛かって、振り返った彼女を見つめる一ツ目が妖しい光を放って見えた。


「……ッ!?」


 それが余りにも恐ろしくて、彼女は腰を抜かしてしまった。


「あ、あぁ…」


 また立ち上がろうとしても脚に力が入らない。

 恐怖に心臓を鷲掴みにされながら、彼女は睨まれた芋虫のように後退った。


 手の平で無様に何度も土を叩き、脚をズルズルと引き摺って目の前の捕食者から逃げようとする。怪物はそんな彼女の憐れな姿を、まるで面白い物を見るかのようにじっと黙って見下ろしていた。


 そんな風に怪物が全く動かないことが、却って彼女の恐怖を助長する。



 ―――もう、終わりだと思った。



 救いはない。

 彼女は目を閉じた。

 自ら塞いだ暗闇の向こう側に、頬を突っつく鎌の切先を感じた。


 息を噛み殺した。

 せめて、最期の瞬間を少しでも覚えていたかった。


 そして。


 ―――そして。


 ―――――そして。


「……っ、けほっ、ごほっ!」


 あまりにも息苦しかったので、彼女は思いっきりむせてしまう。

 そこに、知らない足音と声がした。


「おい、大丈夫か!?」

「えっ……?」


 彼女は声の主を見上げる。


 すると怪物から彼女を庇うように、長い槍を握った青年が毅然とした様子で立ち塞がっていた。彼は槍の切先を向けて静かに怪物を威嚇しているが、相手は意にも介さず襲う機会を狙っている。


 はっ、と息を漏らした。


「やっぱ、簡単に引き下がっちゃくれないか」


 解っていたというように。

 すかさず彼が動く。


「ふ…っ!」


 怪物の足元を狙った鋭い一突き。風を切る勢いで放たれたそれは良い狙いをしていたが、反応のいい怪物にはサッと避けられてしまう。


 そうして腕を伸ばし切ったところに返す反撃。


「食らうかよっ!」


 牙を剥き出しにして飛び込んできた怪物に彼は一切臆することなく、横に転がってその攻撃を避けた。


 噛み付きは空振り、着地。

 彼の位置取りは怪物の横っ腹。

 そして伸ばしたままの槍の切先は、奴の腹の下。


「…っ!」


 ぐっと槍を握り直し、勢いよく天に掲げる。


 その最中、円弧を描き打ち上がる切先の軌道上にあった怪物の腹を、さもついでのように気持ちよく切り裂きながら。


「ガ、アァ…」


 それまで一切鳴き声を発さなかった怪物が、漸く少しの呻き声を上げる。


「効くだろ? 切先これには毎日ちゃんとからな」


 微かな虹色に輝く切先を得意げに見せつけ、青年はよろめく怪物に対して追撃の手を緩めない。といっても、次に出した横っ腹への一撃で戦いは終わった。鋭く放たれた突きは今度こそ怪物を一突きに、その命を刈り取った。


「…ふんっ」


 絶命した怪物の亡骸を蹴り飛ばし、槍を引き抜く。


 そして息を整えた青年は、尚も戸惑って座り込んでいる少女の方へ向き直った。


「怪我は無いか?」

「あ…はい、なんとか…」

「そっか、よかった」


 少女はまだ、どこか夢見心地だった。


 何もかもが現実味に欠けていて、死に瀕していたこともその淵から救われたことも、綺麗なお伽噺のように感じていた。


「立てるか?」

「ぁ……い、いいえ…」


 青年の問いに、彼女は自身の調子を確かめることもなく即答した。


 彼女は立ち上がることができない。

 それが斯く在るべき答えであるかのように。


「手、握って」


 すかさず返ってきた彼の答えは、彼女にとって満足いくものだっただろうか。


「結構暗いな。けどここじゃ野宿にも向かないし、予定通り集落に寄ってく方がよさそうだ」


 周囲の暗さに辟易しながら、彼は片手で器用にランタンに火を灯す。ぼうっと淡い光が広がって、二人の姿を暖かく照らした。


「…ランタン、持つか?」

「……」


 コクリと、少女は頷く。

 そして手で受け取る代わりに、尻尾で取っ手をくるんでランタンを持ち上げた。


「おっ、器用だな」


 青年は感心したように笑った。


「じゃあ行こう、また何か出たら面倒だ」


 青年に導かれるまま、少女も歩き出す。

 尻尾の先でランタンを揺らして、行く先に光を齎しながら。


 これから自分はどうなるのだろう。

 この先には何があるのだろう。


 そんな未知への不安を抱えながら、ふと少女は青年の方を見て。


「ん、どうかしたか?」

「……なんでも、ありません」


 灯りに照らされた優しい横顔に、ぽっと顔を赤らめた。

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