モラトリアム

西順

モラトリアム

 五里霧中。五里は現在のキロメートルに換算すると、約20キロにもなるそうだ。四方がそれだけ霧に囲まれれば、迷うのも当然と言える。


 人生なんて一寸先は闇で、暗中模索で五里霧中だ。親や教師の敷いたレールを辿ったところで、待っているのはトロッコ問題。他者との関わりを犠牲に成功を得るか、自分を犠牲にして不幸に酔うか。どちらかを選んで進んだ所で、人生の終幕にならなければ答えは出せない。


 自分の人生だ。もっと見通しの良い所から、楽なルートを選びたい。しかし周りは霧と闇に包まれて、何なら頭の中まで霧が掛かったように薄ぼんやりしている。こんな状態じゃ先の見通しなんて立てられる訳が無い。


 放課後、帰宅部の俺は家にも帰らずボーッと窓から運動部の連中を見ていた。彼ら彼女らは将来を不安に思わないのだろうか? プロのスポーツ選手になれる人間なんて一握りだ。彼ら彼女らのしている事が、将来の役に立つとは到底思えない。それなら塾に通った方がマシだろう。


「はあ。俺が世話を焼く事じゃないな」


 自嘲気味に笑いながら、俺は教室を後にした。


 昇降口で上履きから靴に履き替え外に出ると、当然ながらまだ運動部が練習をしていた。なんと無しにそれを眺めていると、足元に野球のボールが転がってきた。拾う。


「サンキュー、八嶋」


 声を掛けてきたのは同じクラスの石橋だ。グローブをかざしているので、こちらに投げろと言外に言っているのだろう。


 俺はわざわざ歩いて行って、石橋のグローブにボールを置いてやった。


「え、ちょっと、離してくれない?」


 俺は未だにボールを握ったままだ。


「なあ、聞いて良いか?」


「はあ? 何だよ、いきなり」


 この事態に困惑する石橋を置き去りにして、俺は話し始めた。


「石橋って、なんでまだ野球やっているの? もう三年だし、お前レギュラーじゃないだろ? 野球部辞めて、塾に通った方が良いよ」


 俺が石橋の目を見詰めながらたしなめると、石橋は嘆息で返してきた。


「おふくろも言っていたけど、俺は三年の夏大会までは部活するつもりだよ」


「何でだよ? 母親が心配している意味が分からない訳じゃないだろ?」


「ウチにさ、年の離れた兄貴がいるんだけど、兄貴もずっと野球やっていた人でさ、社会人になった今でも草野球やっているような野球バカなんだよ」


 ふ〜ん。その兄貴、プライベートは充実しているかも知れないけど、給料の安い会社でこき使われていそうだな。


「ちなみに兄貴は社長をしている」


「はあ!?」


 全然結びつかないんだが?


「って言っても飲食店経営だけどな。3店舗も経営しているんだぜ?」


 どうしてそうなる。


「兄貴もさ、野球は好きだけど上手くはない人なんだ。でもさ、投げ出さない人で、目標を決めたら、地味な事も厭わずに、地道に一歩一歩歩いていける足を持っている人なんだ」


「はあ?」


 俺は首を傾げていた。


「人間、どんな分野だって最初から上手い人間は一握りさ。そう言う一握りの人間が光っているから、皆がそれになりたがる。そこへ向かおうとする。でもその光は遠くの山の頂上で光っている道標の一つでしかない。俺たちにはそこへ一足飛びで向かえる羽根は無い。代わりにあるのが、足だ」


 言って石橋は自分の足を叩いてみせた。


「世界なんてのは五里霧中で暗中模索だ。自分の足で一歩一歩踏み固めて、自分で道を切り拓きながら登っていかなきゃいけない。そうすれば、たとえ光に届かずとも、近い山なら登り切れる。近い山を登れれば、霧と闇に包まれていた景色も、少しだけ拓けて、見通しがきくようになる。そうなったら、次はもっと高い山を目指せば良い。人生はこの繰り返しなんだよ」


「自分の足で一歩一歩踏み固める……」


「ウチのおふくろや八嶋が言いたい事も分かる。逆に、だからこそ俺は野球を途中で投げ出すのではなく、大事な一歩として完全燃焼で終わらせたいんだ。そうやって登り切った山は、甲子園優勝みたいな光ではないけれど、やり切ったと言う達成感を俺に与えてくれて、その山から見通せば、次に登る山も見えてくると思うから」


「……そうか」


「ま、ここまでの話、兄貴の受け売りだけどな」


 そう言うと、すっかり力の抜けていた俺の手からボールをそっと取り返した石橋は、グラウンドへと戻っていったのだった。


 この霧と闇の中、俺には石橋の背中が眩しく見えた。

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モラトリアム 西順 @nisijun624

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