第6話 夜の廊下

<廊下>


 雷の音は止んでいる。風の音も控えめになる。

 少し弱まった雨の音が聞こえる中、二人の足音が響く。

 声も静かな廊下にわずかに反響して、よく聞こえる。


「夜の学校って不思議な感じする。毎日過ごしてる場所なのに暗いし、誰もいないし、静かだし」


 しばらくふたりの廊下を歩く音だけが聞こえた。


 ぽつりと彼女が話し出す。


「先生、私ね。ほんとは次の大会に出るの、怖いんだ」


「だって、大会に出るのあたしだけじゃん。みんなは応援に来てくれるっていってくれたけどさ、、断ったんだよね」


 先生は黙って聞いている。


 彼女は話を続ける。


「だって、みんな、陸上本気じゃないんだもん。応援に来るのだって、その日テストがあるから学校休みたいだけだよ……本気であたしのこと応援したいわけじゃないし。先生もわかってるでしょ。ウチみたいな弱小高校の陸上部なんてさ、本気でやってるやつなんていないんだよね」


「適度に運動して、適当に大会に出てればそれで満足なんだよね。勝つとか負けるとかどうでもいいんだよね」


 先生の質問に 足を止める彼女。先生も立ち止まる。


「あ、あたしは……!」


 再びあるき出す彼女。先生もあとをついていく。


「あたしは小学校の時はけっこう足が速かったからさ、運動会でもいっつも一番で。親にも友達にも褒められてさ。それで走ることが好きになって陸上始めたんだ」


「中学では短距離だったんだけどね」


 数歩の間無言の彼女。先生は黙って聞いている。


「大会でさ……全然ダメだった。思い知らされた。やっぱり上には上がいるよね。結局、最後の大会も予選で負けちゃったし。三年間、毎日練習したのにさ」


 彼女は元気なさそうに話す。先生にとって初めて聞く彼女の過去の話だった。


「でね、高校入って陸上はもうやめようって思ってたんだ」


「でも、やっぱり気になっちゃって、一応見るだけって思って陸上部の見学にいったんだ」


「ひと目見てわかった。ああ、本気でやってる部活じゃないんだなって……」


 彼女が陸上部の見学に来た日のことを思い出す。彼女もそのときのことを思い出しているかのようだった。

 彼女は立ち止まり振り向く。


「でもそのときにさ、アタシたちいきなり走らされたじゃん。びっくりしたなあれは」


「もう走らないって決めてたのに。どうせ走ったって高校では通用しないってわかってたのに」


「でも先生がさ、お前は中距離に向いてるって言ってくれたじゃん。良いものを持ってるって言ったの覚えてる? 嘘、忘れてたでしょ」


「覚えてて、くれたんだ……」


「あれでもうちょっとだけ陸上やってみようかなって思ったんだよ? まだ挑戦できることがあるかもしれないって思ったら入部届出しちゃってた。自分でもびっくりだよ」


 自嘲気味に笑う彼女。


「やっぱり走るの好きだったみたい。あたしは本当は走りたかったんだなって。それに気づいたのがあのとき」


「中距離に転向してからさ、そこそこ結果が出るようになってさ、先生も中学の時の顧問と全然違って一生懸命教えてくれるしさ」


「また走るのが楽しくなったんだよね。だから、全部、先生のおかげだよ」


 彼女はこちらをまっすぐ見つめていった。


「ありがとね」


「ううん。ほんとに先生のおかげ。先生はさ、居残り練習だっていっつも付き合ってくれるし、あたし……たちのデータを毎日記録してくれてるのも知ってるし。先生がいなかったらあたしはここまでこれなかった。感謝してるんだよ。これでもさ」


 しばらく下を向いたまま。話さなくなった彼女。

 それから静かに、力強く言った。


「だから、あたしは本気だよ。うん……本気」


「先生はどうなの? 本気でやってくれてた? ……ううんいいや。わかってるもん。先生は本気であたし……たちのために頑張ってくれてたもんね。それくらいわかるよ。ずっと見てたから」


 彼女の声はだんだんと力をなくしていく。


「だからさ、怖いんだ」


 最後に震えるように絞り出すように声を出した。これまでに弱みを見せなかった彼女が初めて見せる表情と声。


「あたし、負けたくない」

 彼女の瞳からは数滴の涙がこぼれた。


「負けたくないよ、先生。先生がずっと一緒に本気でやってくれたのに、また負けたりしたら、先生の期待に応えられなかったらって思うと、怖いよ!」

 大会を控え、友達にも相談できずに、ずっと抱えていたものが溢れ出してしまった彼女。


 先生はそこで何を言ったのか。

 

「先生ぇ……」

 彼女が先生にしがみつく。

 夜の学校で教え子と抱き合う姿なんて誰かに見られたらいいわけもできないが、今彼女を突き放すことはできなかった。


 暫くの間先生の胸で泣いていた彼女はだんだんと落ち着きを取り戻していった。


 そして先生から離れると、まだ鼻声のまま強がっていった。

「あー、やっぱり今のナシ」


「あ、いや陸上に本気なのはホントだけど、とにかくナシ。忘れて?」


 彼女は泣き顔を見られないようにすぐに前を向くと、またゆっくりと歩き出した。

 先生もその後をついていく。


「あーあ。なんかすっきりした! ありがとね先生」

 彼女はもう大丈夫だろう。そう思わせるほど、彼女の声には力強さが戻っていた。

 思い返せば、最近はずっと様子がおかしかった。


 天真爛漫という言葉がよく当てはまる彼女がここ最近は練習中、真剣ではあるもののどこか別のことを考えているように見えたのはこの悩みが原因だったのかもしれない。

 自分が彼女の重荷になっていたのかと思うと心が痛む。



 生徒たちのために教師ができることは意外と少ない。手を差し伸べたくともそれがかえって生徒たちにとってマイナスに働くことだってある。支えてあげることはできても引っ張っていくことはできない。進む先は生徒自身が決めることだからだ。


 だが、彼女は自分の力で立ち直った。

 もう大丈夫だろう。


「あたし、頑張るね、大会。最後まで本気でぶつかってみる!」

 彼女の声にもう迷いはなかった。


「先生。だからさ、先生も最後まで本気でついて来てよね!」


「あ、雨だいぶ弱くなってきたね」


 雷はいつの間にか遥か遠くでなっているだけで、雨も風も収まっていた。




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