第八章

 あの日から、シイはもちろん、兄さんも、デス男と郷に何も言わなかった。わたしも言えなかった。

 わたしは気づいたら自分の部屋で一人眠っていた。何もこういうことは初めてではなかったので、特に驚くこともなくわたしは身体を起こした。部屋には誰も居なくて、けれどメモだけが残っていた。『ごめんなさいね』とだけ書かれた一枚の紙きれは、字の綺麗さからシイが残していったものであることはすぐに分かった。普段こういうメモを残して行ってくれるのは兄さんなので、やっぱり応えたのかな、なんて推察してしまう。

 兄さんは昔から、自分らしく生きることをモットーにしていた。自らがパープルであることなんて関係なくて、自分がやりたいように日々を生きる、と豪語していた兄さんは、ずっと、この日までその言葉を抱えて生きてきていた。それと同時に、こんな場所で終わるのは僕らしくない、ともずっと言っていた。兄さんはここから出たがっていたけれど、けれどここから出るためには自分を適切に曲げる必要がある。変なところで頑固で、それがまた兄さんの良さでもあるのだけれど。だからこそ、自分を変えずに出ていける方法を見つけて、混乱しているのだろう。

 兄さんが連日姿を見せなくなったとき、きっと図書館に籠っていたのだと思う。トウがこの時期に出てくるのと同じように、兄さんはこの時期よく図書館に籠りがちになる。それは行ってしまう人を助けるための方法を模索しているからで、それもまた、恒例ではあった。

 あの日、兄さんと八号室に忍び込んだ日。兄さんは見ていたのだろう。八号室に空いていた穴を。そしてずっと、八号室の穴の真実を追い求めて、もしかしたらそこに脱出口があるんじゃないかと信じて、八号室の前に佇むようになったのだろう。それで昨日、手記……エイトの手記を見てしまったわけだ。

 ずっと疑問には思っていた。わたしが知っている中で最年長なのはイ、それでも生きていれば十九歳。隔離施設の数と時期的に、もっと年上が居たとしてもおかしくはないだろう、と。けれど、エイトの脱走、恐らく未遂とワンコを始めとした入居者の末路から察するに、脱走騒ぎの後処理に追われた結果がこれなのだろう。思えば、もっと早く気づけるはずだったのだ。こんな無駄に十七年歳を重ねて、気づいてこなかったのがおかしかった。八号室の脱走という結論に至るには無理がありすぎるけれど、それでもこの施設を取り巻く違和感にはもっと早く気づけたはずなのに。時の流れはいささか早すぎて、わたしには、やっぱりついていけない。ただ、もしもやり直せるのだとしたら、八号室に空いた穴からわたし達で出ていくなんて方法も取れたはずなのだ。

 そこまで考えて、気づいた。シイの言っていたことに。

 わたしからこんな思考が出たのはなぜか。それは、知ってしまったからだ。この世界から抜け出すことができる、唯一の脱出口を。だからこんなにもグルグルと考えてしまって、思考の沼に落ちて、抜け出せなくなる。泥まみれになって帰ってきたシイのシャワーは、いつもより長かった。シイも同じような思考をして、そして諦めてしまったのかな。わたしはずっと、わたし達のことを一番考えているのは兄さんだと思って過ごしてきた。けれど、もしかしたら、その座はシイと兄さんが共に座るべき椅子だったのかもしれない。シイはわたしが倒れこんでしまって、そして今も時間すら確認せずにここで考え込んで、それでもなお結論が出そうにないことを、これまで一人で考えながら、わたし達と普通に接してきたのだ。……内側で深く考えこむことでわたしは時間の流れを誤魔化してきたけれど、シイは考えながらも時間はわたし達と共に流れていた。……この中で最年少のはずなのに、シイの頭の中では、この世界はどう転回しているのだろう。わたしでは分からない、処理が追い付かなくて倒れこんでしまうようなことを、シイはあの柔らかな微笑みの元で、ずっと考え込んできたのだろう。……そんな苦しくてつらいことを、シイはさも当然と言わんばかりにやってきたのか。

「ふあぁ……やっぱり、床で寝るのは健康によくないわね。……けれど、腰痛促進ベッドもたいがいかしら……」

「えっ」

 床から浮かび上がる一つの影。ふわふわとした黒髪、毛先は緑。それを際限なく伸ばし続けている……。

「……シイ」

 わたしが名前を呼ぶと、シイはただ、おはよう、とだけ言った。しばらくの沈黙のあとに、シイが起き上がって、わたしが座るベッドの淵に座った。

「イッちゃん、何も見なかったことにしてくれないかしら?」

 シイはわたしの方をまっすぐに見ていた。眉を下げているシイは、いつもよりしおらしくて、それでも確固たる意志を持って、わたしを見つめていた。

「兄さんは……」

「出る気ね。……わたくしは止められないわ。兄さんがいかに頑固かなんて、あなたさまが一番多く知っているはずよ」

 シイはあきらめてこちらを見ていた。シイなりにあの後、兄さんを説得していたのだろう。けれど上手くいかなくて、わたしの元に来たのだろう。

 もし、脱出が失敗したらどうなるかは、前例が示した通りだ。シイやわたしはともかく、タイムリミットギリギリまで行きたいと話しているラッキーやトウは満足いかないだろう。兄さんはその時、どんな選択を取るのか、なんとなく分かる。わたし達には遠慮しない、そういう性格だ。それに兄さんなら失敗を活かしてもっと入念に、最後まで綺麗にやり遂げるだろう。わたしは、そういう兄さんを知っている。

「わたしは……」

 シイを見る。シイはわたしがシイの願いに賛同してくれることを望んでいるけれど、それよりも、わたしの選択を聞きたいと、そういうような瞳でわたしを見ていた。……きっと、親が居れば、このような感じなのだろう。シイは年下だが。

「……兄さんと一緒に過ごしたい。シイの好きな本をもっと聞きたい。ラッキーの行く末を見守っていたい。トウの研究を見ていたい。タイムリミットまで、皆と一緒に暮らしたいよ」

 シイは目を見開いた後に、頷いて、目を閉じた。わたしの声を聞いてくれているのだと解釈して、わたしは話し出す。

「……たまに考える。もっと生きたい、って皆が言うたびに。少数派のわたし達がダラダラ生きたところで、何も変わらない。だったら、もう、この環境に溺れて、わたし達を求めてくれるいびつで悲惨な外へ行った方が楽なんじゃないかって」

 そこまで言って、シイから目線を外した。しばらくの沈黙。肯定も否定もしていないから、シイも何も言えないようで、声が返ってくることもなかった。

「……わたくしは……」

 沈黙を超えて、シイがふと話し出した。柔らかくて優しい声だった。

「紫は、どうしようもなく孤独よ。全て同じように扱われている紫だけれど、一つ一つ赤と青の配合が違う。一つ一つ違う紫が、いいえ、赤と青という揺るがない原色がぶつかりあって、混ざり合って、いびつになっていく。

けれどそれって、美しいことなんじゃないかしら」

 シイの方をちらりと見る。シイと目が合う。シイはにこ、と笑って、また口を開いた。心なしかゆっくりと、揺蕩うように話してくれているような気がする。

「わたし達は孤独よ。同時に、身を寄せ合っている。神秘の中で、揺られ動きあい、初めての音を紡いでいる。……この色の美しさを分からないなんて横暴よ。けれど残念ながら、それが総意。そうだから、わたくし達はこんな油壷に押し込まれるはめになっている」

 そこまで言って、シイは扉の方を見た。その目からは、何も感じ取ることはできなかった。

「でも……。この色が、紫という色が、いつか、目に留まって、美しいなんて思われなくていいから、いびつだと思っていても構わないから、ただ、そこにあることが普通なんだって……思われる日が来たら。そう思うきっかけを作ってくれる種さえ植えてくれれば。やがてそれがそこにあることが普通になったら……。……ああ、もう……。わたくしは、兄さんに期待しているのね」

 ……シイの目に浮かんでいるものが、諦めすらも凌駕する希望だと、気づいた。わたしは息を吸った。浮かぶには早すぎる走馬灯が、わたしの前を駆け巡っていく。皆の顔が浮かんでは消えていく。息を吐いて、シイの頭に手を乗せた。

「……頑張ったね」

 シイは驚いて、わたしを見つめて。その後、鐘が鳴るまで、会話は一切無かった。


「いやあこれで最後ともなると悲しいな、うん! 人の命は有限で、その機能こそ人類を素晴らしくしているとは思うがしかし、身近な人がこうなってしまうとなあ」

 デス男と郷の最後の晩餐……いや、昼餐。悲壮感を吹き飛ばすように、二人が盛り上げてくれていたので、トウもそれに乗じて話していた。トウは……笑っていた。ずっと、この日、ずっと笑っていた。その裏にある感情は、ひた隠しにして。

「……死の直前、君達が死を理解しないことを、祈っているよ」

 ぼそ、とつぶやかれた言葉は、二人に届いたようで、それがあの日のアンサーなのだと気付いて、わたしはトウを見たけれど、トウは満足そうにしているばかりだった。

「ありがとね。できるだけ苦しみたくはないものね」

「おう。良かったのか? 聞いちまって」

 郷がそう言うと、トウは短い黒髪を存分に縦に振るい、

「冥途の土産に持っていくといいさ」

と笑った。

「あの、ボク、頑張るね! そして、頑張って……会いにいくからね!」

 ラッキーはこの日に至るまで、二人と一番喋っていたと言っても過言ではないくらいによく喋っていた。その中で芽生えた絆はきっと、どこに言っても存在しているだろう。そうであってほしい、なんて願望も、ちょっぴり乗せて。

「待ってるぞ、ラッキー。はは、こんな良いやつに知り合えてよかった」

「ホントホント! アンタの奥さん、楽しみにしてるんだからね」

 二人はラッキーの親か。そうつぶやきたくなるくらいには、三人はまるで親子のようで、ぞっとこうしていられるなんて希望を持つくらいには、穏やかで揺るがない雰囲気がそこに漂っていた。ラッキーはこれからどうなっていくのだろう。わたしも気になるけれど、何より、誰よりも気になるのは二人だろうな。ここで行くのは、無念だったろうに。子どもの成長は最後まで見届けたいのが親心なのだとしたら、どうして親は子どもより寿命が短いのだろうか。……死に目を見ないため、なのかもしれない。

「行ってらっしゃい。元気でね」

 シイが短くそう言う。それはまるで普通のあいさつのようで、普通の食事風景のようで、肩の荷が下りる心地があった。元気でね、と言ったのは、きっとシイなりの気遣いで、優しさだ。

「ふふっ、ありがと。アタシ、いつでも元気で行くわよ」

「ずっと元気でいるよ。ありがとな、シイ」

 二人の声に調子でも狂ったのか、シイはお茶を一口すすって、顔が隠れるようにした。顔を上げたシイの瞳には水滴がついていたけれど、きっとあれはお茶の水滴が瞳についてしまったのだろう。あんなことを言っていたシイはやっぱり、わたし達の可能性を信じているようだ。普通に生きて普通に死にたい、それだけの願いのために、シイはこんな風に……お茶の水滴を瞳付近につかせるなんてことをしたのだ。

「……なあ、もし……」

 兄さんが言いかけた言葉を、デス男が頬をついて止めた。

「う、うおっ、なんだ」

「行ってくるわね」

 デス男が兄さんにウインクをする。兄さんは何か言いたげだったけれど、口をつぐんだ。

「……ああ。行ってらっしゃい」

デス男だけではなく、二人に顔を向けて兄さんが言ったので、兄さんの表情は読み取ることは出来なかった。兄さんは一体、何を考えているのだろうか。けれど、わたしにはたまに、兄さんが革命を告げる狼煙のように、新しい息吹を告げる種のように見えるのだ。

「おう。……あんま無理すんなよ」

「アタシ達の背中を追うだけが、アンタの道じゃないんだからね」

 いつも頼りがいのある兄さんが、少しだけ小さく、年相応に見えた。流れに乗ってきたので、わたしも何か言おうとしたけれど、東堂さんが迎えに来る方が早かった。

「……時間だ」

 東堂さんは少しだけ、ようやくか、なんて顔をしているように感じた。

「ええっ、もう。空気読めないわね」

 とぼやきながら席を立つデス男を見て、郷も立ち上がる。東堂さんの指示には早く従った方がいい。だから、しょうがないことなんだ。分かっているのに、二人が東堂さんの前に行ったとき、わたしは心のうちをさらけ出すように、

「行かないで!」

と叫んでしまった。その言葉に眉をしかめた東堂さんは、うるさいぞ、とひと蹴りしたけれど、二人は顔を見合わせた後、こちらを向いてくれた。

「……ごめんなさいね。行ってきます」

 デス男が、自らの口元に立てた人差し指を持っていく。これ以上何も言うな、ということだろう。……逆らえば、どうなるか分からないから。デス男は、そして郷は、わたしを守ってくれようとしている。

「……短い間だったけどよ、めっちゃ楽しかった。最後に見るのがお前らでよかったよ。……行ってきます」

 郷がわたしに、そして皆に、優しく微笑みかける。……そんな姿を見たら、

「……行ってらっしゃい」

としか、言えないじゃないか。

 時間は残酷にも、流れのまま過ぎ去って……。デス男と郷は、居なくなってしまった。その時間はわたし達にとってあまりに大切で……あまりにも、短すぎた。


 静かな晩御飯を終えて、個室へと戻ろうとするとき、兄さんに一緒に帰ろうぜ、と声をかけられた。個室番号が前半なのは今やわたし達だけだ。

 少し前までは賑やかだったはずのこの施設は、今や静まり返ってしまっている。……十五歳であるシイは、晩年一年、この音の中で暮らさなければならない。それなのに、あんなにも、わたし達のことを考え、シイなりの結論を導き出していたというのか。

「イッちゃん」

 兄さんが、ふいに話しかけてきた。

「なに」

「僕さ」

 五号室と四号室を通り過ぎるくらいに感覚を開けて、二号室の前で立ち止まった兄さんは、不安定だけれど、決意に満ちていて、わたしはそれを聞きたくなって、同じように立ち止まった。

「決めたよ」

「わたしも」

 言葉にしないと分かり合えないけれど、わたし達は微笑みあって、相手のことが何でも分かるような、そんな感覚に酔いしれた。……次、あの場所に立つ前に。時間なら、まだまだある。

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