第七章

 兄さんが八号室の前に立ち尽くしていた。献立が更新されてしまった。デス男と郷が去ってしまうのはあと三日後だと知らされた。皆、特に二人は明るくふるまっていたけれど、兄さんだけはずっと辛そうだった。誰かが行ってしまうときは、わたし達は幸運にも少ないけれど、兄さんは常にこんな風になっている。そして、どこかのタイミングできまって八号室の前に佇むのだ。

「……兄さん」

 声をかける。聞こえているはずなのに、兄さんの瞳は八号室にとらわれたまま動かない。釘付けになっている、不思議な引力で、この部屋にそうされているような兄さんは、返答すらせずにただ目の前の扉を見つめていた。歴史すら見通しそうなその瞳に、何を映しているのだろう。

 そっとしておいてあげよう。そう思って、談話室にでも行こうとすると、階段を下りてきたシイと目が合った。シイはわたしに向かって笑いかけると、すぐさま視線をわたしの奥へと向けた。

「あなたさまだったの」

 シイは独り言のようなトーンで、けれど明確に、そう言った。兄さんの方を振り向くと、目線だけをこちらに送っていて、その表情から何も読み取ることができなくて、なんだか逃げ出したくなるような、そんな感触さえ覚えた。

「……知っていたのか?」

「そうだと、言ったら?」

「……」

 シイの声に何も答えずに、兄さんはまた目線を戻して、静かに何かを考え込んだ。

「助けが……」

 シイがわたしの隣に歩いてくる。わたしとシイが交差する前に、シイは立ち止まって、言葉の続きを紡いだ。

「助けが目の前にあるけれど届かないのと、助けが来ないと分かり切っているのと。どちらが、あなたさまは絶望するかしら」

 シイの手には手記らしきものが握られていた。シイの方に身体を向けると、シイはわたしの方を視線だけで追って、微笑んだ。

「わたくしは前者ね」

 手渡された手記には、『エイト』とだけ書かれてあった。パラパラとめくってみると、最初はあたりさわりない内容だったけれど、最後あたりをめくると、そこには、

「脱走……?」

 そう、ここから逃げ出した、という旨の手記が書いてあった。


『今日決行する。

八号室の下、ベッドの下に穴を掘った。恐らく今日、俺はここから出ることができるだろう……しくらなければな。

ある程度穴は掘った。今日掘り切れる手筈だ。

この手記は、一号室のワンコに託していくこととする。もし俺が戻ってきたのなら、笑いながら、この手記をどこかに隠しておいてくれ。……検討を祈る。俺も、お前らも。

迷惑かけたな、今まで。ありが』


「その穴が、まだここに残っている」

 シイの言葉で一気に現実へと引き戻される。思考する暇も与えないように、シイは言葉を畳みかける。

「取り壊しの目的には、証拠隠滅も入っていると思っているわ。脱走跡の、ね。実際、その事実を知る者は、つまり手記に書かれていたワンコさんなんかは、恐らく期を早くして処理されているわ。

わたくしは、幸運だった。わたくしが八号室の中を覗いて、穴を通ったのがバレたとき、正直……死を覚悟したわ。それでもわたくしが今ここで生きているのは、八号室の警備厳重化が決まっていたのと、わたくしと職員とのお話合いの結果よ。……幸運だったわ」

「なんで、言ってくれなかったんだ?」

 兄さんがシイの方を見る。恐らくシイが言っている『穴を通った』時期というのは

「……さっきも言ったわよ。助けが目の前にある状況と、ないと分かり切っている状況で、助けはこない。どちらが、幸せかしら」

 どうなんだろう。わたしは

「……確かにな。……でも、シイが一人で抱えなくても」

「わたくしは耐えられるわ。けれど、こんな状況、皆に知らせたら……。歴史は輪廻する。……結局は失われるものなのに、わたくしは……理不尽に奪われるのが怖いのよ」

「抱えさせてくれ、僕にも。シイ一人にこんな重荷背負わせられない」

「そして抱えて、あなたさまはどうするというの? バカなこと考えないで、この中で一緒に暮らしましょうよ」

「僕は僕のまま生きる。僕がそうしたいならそうするし、そうしたくないならそうしないよ。シイ、君も知っているだろう」

「あなたさまが失われる必要なんてないの。わたくしは、最後まであなたさまと共に居たい。お願い、やめて」

「……」

「わたし……は」

 思考がぐるぐるして、上手くまとまらない。わたしは、あんまり情報量が多くなると、すぐこうなって、嫌だ。

 時間的には、短いはずなのに。……ああ、だめだ、もう……。

「わたしは……」

 わたしは、目の前に活路があったとき、どうするのだろう。……もう行ってしまう彼らは、今、何を考えて、いるのだろう。一年後、わたしが十八歳になった時、兄さんと、笑顔でいけるかな。

 全身が響きあうほどの衝撃と、脳内に響く無数の声とともに、思考の中に静かに落ちた。

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