第六章

 献立が更新されて、十日くらい経っただろうか。更新のあたりから、デス男と郷との会話が増えてきた。年長もので何か考えることでもあるのだろう。あとの変化と言えば、トウが食堂に来る回数が増えた。トウ自身は研究がひと段落したんだと言っていたけれど、実際のところは、最後を意識しているにすぎないのだろう。インが出ていった時もひと段落していたから、きっと。郷とデス男に積極的に話しかける姿は、楽しげで愉快だけれど、わたし達の中で一番寂しそうにしているような、そんな感触を覚えた。トウは個人主義者のように見えるけれど、意外と寂しがり屋で、自由奔放さのなかにこういう面が隠れているから憎めないのだ。なんなら完全に個人主義でさらにタチが悪いのがシイだったりする。それが良いところでもあるのだが。

 あの日、ラッキーが吹っ切れてから、郷はラッキーと仲良くなって、その流れでデス男と仲良くなっていた。あの三人は恋愛観がはっきりしている(させたい人も交じっているが)から、その流れで仲良くなったのだろう。シイは遊び相手が取られた、と不満そうだったが、あの日からよく兄さんが図書館に出没するようになったので、今は新しい遊び相手と遊んでいるのだろう。わたしは特に変わりないけれど、しいていうならば人と人とのつなぎ役になって……自分でいうのもなんだけれど、口数が増えてきたかもしれない。あくまで自分の分析なので、間違っている可能性もあるし、そちらの方がなんなら確率は高いけれど。とにかく、色々な人と話すようになった。

 朝御飯を終えて、何をしようかと思いながらそのまま食堂にとどまっていると、トウが話しかけてきた。

「なあイッちゃん、今日暇かい?」

 トウからこんな日常会話で話しかけられるのは珍しいので、わたしは少し身構えてしまう。普段トウの研究相手というか、研究材料は兄さんが担っているけれど、最近はシイに取られがちだから、まさかその役がわたしに向いたのか、というところまで考えた。兄さんの負担は減らしてあげたいけれど、トウの研究には……少し、付き合いたくない。申し訳ないけれど。

「研究なら付き合わないよ」

 先んじて手を打っておくと、トウは面食らった表情を見せた後、面白がるように笑った。

「ふふ、いつでも付き合ってくれて構わないんだよ? 私はいつでも君を待っているしね。とはいえ最近はねえ、兄さんもそうだがラッキーも付き合ってくれるようになったので研究材料としては充実しているのさ。本人が言うには、『好きって感情はあの日決着をつけたけど、憧れの人ではあるからさ』とのことらしいよ。嬉しいねえ、ふふっ」

「そっか。ラッキー……よかった」

 わたしの安心した様子を見て、トウはそれで、と話し出した。

「デス男と郷で今日恋バナというものをするらしいんだよ。いやあ興が乗ってね、私も参加すると名乗りをあげたはいいものの、やはりあの空間に単身乗り込むのは少し怖気づく! そこでイッちゃん一緒に行かないか!」

 いいだろう、とこちらを覗き込んでくるトウは、少し眉を下げていた。おおかた、そろそろ去ってしまう二人が話すと聞いて切り込んでいったはいいものの、恋愛なんぞ分からないから、同じ価値観のわたしを連れていきたいのだろう。正確にはトウはわたしのように根っから恋愛感情が分からないというわけではないのだが、トウ自身の気質として恋愛よりも研究、という感じであるため、知らないから分からないという表現が近いのだろうが。わたしも最後が近づいてきている二人と話がしたいし、二人の話は単純に気になるため、

「いいよ」

と言うと、トウはとても嬉しそうに、にぱっと笑った。

「じゃあ、二人に伝えてくる!」

 白衣をはためかせて去っていくトウの背中を見守って、はっとする。大事なことをまだ聞いていなかった。

「トウー! わたし、いつ、どこに行けばいいのーっ!?」

 トウはぱっと動きを止め、またこちらに、今度は少し速度を落として、やってきた。

「昼御飯のあと、談話室に!」

 わたしが頷く隙もなく走り去っていくトウを、今度はちゃんと眺めた。


「泣き崩れるアタシ……そこに、白馬の王子様がやってくるの。そして、言うのよ」

「デス男、無事かい?」

「そう! 郷ちゃん、分かってきたわねっ」

 デス男の恋愛観は、どこか現実みがない。空想感が強くて、けれど話している当人が楽しそうなのが、一つの特徴で、美点だと、個人的に思う。そして、聴いていてもまた、とても楽しい。そんなデス男といつも話をしているからか、これまでの話を聞いている限り、話を聞いている限り、郷もデス男の空想が分かってきているようで、たまに郷がデス男の『白馬の王子様』のセリフを代弁しては、デス男がキャー、なんてリアクションしたり、先程のようにやるじゃない、なんて言ったりしている。郷もなぜか得意げで、見ていて本当に楽しい。トウは研究者ではあるが、それはそれとしてこういう空想にすぎないことを妄想し、考えることは健全で素晴らしいことである、という思考の持ち主だ。それゆえに、にこやかに、愉快そうに、トウにしては珍しく黙って二人の話を聞いていた。

「それで、アタシ達は幸せなゴールインを迎えるの。アタシは純白のウエディングをまとって、王子様の隣にたって……。幸せに暮らすのよ、ずっと」

 そんな話を繰り広げて、デス男は満足げだ。郷が拍手したのを皮切りに、わたし達も拍手を送ると、デス男は少しだけ照れくさそうにしていた。それを見て、今まで黙っていたトウが手を広げながら話し出した。

「本当に素晴らしい! うん、本当に。白馬に乗った王子様……さぞ眉目秀麗で紳士なのだろうね! うん、デス男にお似合いだと思うっ」

「あらっ、アンタにはあげないわよ」

 デス男がそういたずらっぽく笑うと、トウが驚いて

「取らないよっ!」

と本気で言うので、わたし達は笑ってしまった。

「次は郷ちゃん! また聞かせてちょうだい、好きな人のこと!」

 デス男が郷に目線を向けると、郷はへへ、と後頭部を軽く掻いた。郷に好きな人がいるというのは、わたし達の中で周知の事実となっていた。それはこのモリオンの誰かではなくて、郷が前までいたコハク隔離施設に居た人だそうだ。ナンバー3312、性自認は女性。コハクでは基本ナンバー名をそのまま名前として呼ぶのが普通だそうだが、3312の持っていた朗らかで明るい性格、また3312はサンサンで始まることから、お日様のようだと誰かが言ったことから始まり、そこから転じて日和、と呼ばれていたらしい。気まぐれでつけられるものらしく、郷の元の名前である5321には特に何もつけられていなかった。分かりやすいもの、例えば123が入っている人はヒフミと呼ばれたり、4444、5555などのぞろ目の人はシゾロ、ゴゾロなどのあだ名がついていたらしいが。もし5321が5123だったら俺ヒフミだったんだぜ、なんて笑っていたことを思い出す。

「日和! だよね郷。ははっ楽しみだ。今まで日和ちゃんが居るという事実しか知らなかったからね、詳細を聞きたいと思っていたのだよ! なあイッちゃん!」

「うん、気になってた。教えて、郷」

 わたし達がそう言うと、郷はしゃあねえな、なんて微笑みながら話してくれる。

「日和はな、サンサンなんて由来の通り、本当にお日様サンサン、って言葉が似合ってよ。コハクはまあ陰鬱で悲惨な場所だったが、それすらも日和を見れば吹き飛ぶんだ。それくらい、ホントに明るくて、優しくて……何よりいいやつだった」

 郷はわたし達を突き抜けて、過去を見ているのだろうか、優しげな目をそちらに向けていた。

「俺、最初上手く馴染めなかったんだよ。まあ普通に、気質のせいだけどさ。俺、人に恋愛感情は向けるんだけど、相手から返されると困っちまって。だから、皆を平等に扱う日和には本当に感謝しかなかったんだ。

いっつも、笑ってたな。無理があるだろ、なんてことも笑顔でやり遂げちまって、正直頑張りすぎだなんて思うことの方が多くって。けどそれを本人に言っても、これくらい大丈夫だ、って言ってさ」

「いい子だねえ、日和。私も会ってみたくなってきたな!……しかし、そんな風じゃこちらに来るのも辛かったろう? よく折り合いをつけれたね?」

 トウ本人は何気ない質問のつもりだったのだろう。実際わたしも少し気になっていた。郷がこちらに来た理由について。

 通常、施設を移ることはあまりない。あったとしても、シイのように五歳、それくらい若い時期に本人の希望があって、もしくは問題があって、上が気まぐれに許可を出せば承認されて移り住むくらいだ。輸送も面倒なので、あまり実現されることは少ないけれど。それでも、十八歳かそこらの人が、取り壊しが決まってくる施設にやってくるのは、珍しいどころの話ではない。

 郷はそれを聞くとああ……と話しづらそうにしていた。デス男も事情自体は知らないそうだが、わたし達より詳しいのだろう、ああ、と少しだけ納得している。

「郷ちゃん、話したくなかったらいいのよ?」

 デス男がそう言うと、トウが慌てた。

「ああっ郷、すまない! 君の根幹に関わることだったか、もちろん言わなくていいぞ! 私はこういう無神経なところがある、気をつけていたのだがダメだったか、あああ、すまない郷!」

 そう言って立ち上がるトウを見て、郷がふ、と笑った。そして、首を振って、わたし達の方を見た。

「ははっ、構わないよ。……うん、そうだな」

 一息入れて、今度はデス男の方を見た。デス男、と呼び掛けられたデス男は、なんの話か分かっているというように、なあに? と笑った。

「俺、やっぱ行きたくねえよ。まだ生きてたい」

「ふふっ、そうね。……アタシは、もう満足だわ。もう、……」

「そうか。はは、俺、デス男の前で泣きわめくかもしんねえな」

「あらやだ、涙は吹いたげる」

「サンキュ」

 わたし達の介入を許さない、どこか遠くで響く声。明らかに、わたし達と二人の合間には大きな溝があって、わたし達はまだそれを超える権利を得ていない、ということは一目でわかった。二人はもう、あちら側に居る。

「でもさ、俺……俺のことを、知ってくれてる人が居るなら、怖くない気がするんだ。俺は……一年でも長く、生き続けられる気がするから」

「分かるわ。アタシも、アタシをこの服に預けてきた。この服達が無くならない限り、アタシもなくならない」

「まさにその通り。だからさ……」

 郷が、こちら側に目を向けてきた。その目は初めて見る目――、いや、違う。初めてではなくて、そう、昔、インも同じ目をしていた。

「覚えててくんね、俺の事。欠片でもいいからさ。俺のこれから話すことでもいい、俺の目の色でもいい、ほら、俺紺色がかった髪してるしさ、紺色の人居たなあ、ってレベルでいいから。覚えててくれ。そしたら、俺も生き続けられる」

 トウとわたしは目を見合わせて、頷いた。郷は目を細めて、微笑んだ。

「ありがとな。……俺がなんでここに来たか。……日和に、告白されたから、だ。日和から好きだ、って言われてしまった。それだけだよ、それだけのことなのにさあ、俺、震えが止まんなくて、全く情けねえだろ、ずっと、信じたくなくって、そしたら……ずっと、吐き気が収まんなかった。毎日、日和と顔合わせるためにぶっ倒れんだ。そんなヤツ置いときたくないだろ? だから、俺はここに来た。日和と離れて、暮らすしかなかった……」

 郷は悔しそうに地面を見つめる。そして息を吸って、吐いて、顔を上げた。その目は少し潤んでいた。

「ああっ、でもさあ! 俺、っ、俺日和が好きだったよ! 日和さえ幸せなら、それでよかったのに、なんで、日和……なんで俺なんかを、好きなんて」

 郷は息を切らして、心臓を抑えた。郷の心は、きっとその日から、ずっと泣き続けてきたのだろう。その涙が、その涙の、ほんの少しが、今わたし達に流れてきた。わたし達は郷のことを、全ては知らない。絶対に、知り得ない。わたしもトウもデス男も、決して郷ではないから。

「……違う形で出会いたかった」

 最後に垂れた雫は、確かに赤く染まっていた。何を言えばいいのか分からなくて黙っていると、

「覚えておく」

と、トウが静かに語りだした。郷がトウの方を見る。トウは黒橡色の瞳を静かに携えて、微笑んでいた。

「覚えておこう。君が生きた証、君の姿、形、声、君を構成する全て。……それから、君の名を、絶対に。私は、忘れない……決して。だから、ああ、どうか、私に話したことを、後悔しないでくれ」

 トウが言った言葉は、郷にとってどのような効果を持ったか。わたしには、知り得ない。

「もちろん、デス男、君のことも、確かに記憶させてくれ。記憶力はいいんだ、信じてくれよ。私は、そのために研究者をしていると言っても、過言ではないんだから」

 デス男は、自分に振られるとは思っていなかったのか、驚いた顔をしていたけれど、すぐに笑って、

「……ありがとう」

と言った。郷も同じ言葉を言えば、トウはにこやかに笑って、研究者やっててよかったよ、といつもの調子で言った。

「そういや、トウってどんな研究してるんだ?」

 そう聞かれたトウは、うん、と一息置いて、

「記憶についての研究さ。人は老いると、記憶がどんどん薄れていって、いわゆる『ボケ』が始まる……というのは、本か何かで見たことがあると思うが。私がやっているのはまさにその辺りの研究だよ。何歳生きても、記憶をなくすことなく、また『ボケ』ることなく、最後まで自らが自らであると認識したまま、明確に死を認識したまま、死にたえることを可能にする、すっごい研究さ」

「へえ、すげえな」

「何度聞いても壮大よねえ……それに、外の人達がそんなことで悩んでるってのも意外だわ」

 二人に褒められて、トウは大変誇らしげにふふん、と笑っていた。

「目の付け所が凄いよね。さすがトウ、って感じ」

「そうだろうそうだろう! 偉大な研究者だからね! うん、もっと褒めたたえてくれて構わないよ!」

 トウのその言葉に、わたし達はふざけながら、トウ様、なんて言いあった。そんな下りに一区切りついて、そういやさ、と郷が切り出した。

「なんでそんな研究しようと思ったんだ? トウなら、他の分野も詳しいだろ?」

 トウはそんな質問を受けて、うーん、と唸ったあと、ふいに笑った。

「うん。……秘密だよ? 私は……。

この世界へ、復」

 その瞬間、晩御飯の鐘が鳴り響いた。いつもよりも静かに話したトウの声は聴きとれなくって、なんて、と言った郷の姿をトウは見ていたと思うけれど、トウはシイとラッキーが来てしまうよ、と席を立った。それ以上の話をする気は、ないらしかった。

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