第四章
朝御飯を食べ終わって、席を立とうとしたところに、東堂さんがやってくる。普段はわたし達と顔も合わせたくない、という態度で居るので、必ず顔を合わせなくてはいけない配膳と健康管理の時間以外にやってくるのは珍しかった。とはいえ、まだ談笑している皆の中でわたしが一番に席を立とうとしたので、わたしが居なくなる直前のタイミングを狙ってやってきたという点では、極力接触を避けたいという思いが根幹にあるのは違いなかった。
「クズ共。聞け」
そう言った東堂さんの声に、食堂が静まりかえる。東堂さんに逆らえば待っているのは……と、全員が理解しているので、東堂さんに歯向かう人は滅法減った。この中で話術的に優れているのはシイとトウだが、あのシイでも言い負かせないほどに東堂さんは議論に強い。というか単純に相性が悪いのだろう。理系的思考の東堂さんと文系的思考のシイでは、立場的なあれそれも相まって東堂さんが強かった。この場で東堂さんに勝てるのはトウだけだ。
「晩飯の時、新人がやってくる。だから全員集まっとけ。二号室、十号室も呼んで来いよ」
「えっ、……はい」
兄さんは色々と聞きたいことがある様子だったが、それを押し殺して言葉を発した。それに満足した東堂さんは、奥に引っ込んでいった。それを皮切りに、少し重たくなった雰囲気をデス男が動かす。
「新人ちゃん! どんな子かしらねっ」
「取り壊しがなくなったそぶりはなかったけれど……まさか、新しく入居者がやってくることがまだあるだなんて」
それに呼応してシイが驚きながらそういう。どんな人か、なんて話題で場は盛り上がったが、隣の兄さんだけは常に空返事で、別のことを考えているように感じられた。その別のことが何かなんて考えれば分かることなので、皆もそこまで探究しなかった。
「ファイト、兄さん」
と皆の会話を邪魔しない程度の小声で励ますと、兄さんはあきらめたように笑って、
「協力してくれるのか」
とこちらを見た。その笑顔に答えるように、わたしもとびきりの笑顔で
「遠慮しておくね」
と答えた。医務室から胃薬を持ってきてあげようかな。
その日は晩御飯まで、昼御飯で出会った一回しか兄さんの姿を見ることはなかった。正確には、昼、御飯を持ってトウの部屋に入るところから今まで、だ。一室一室は広いけれど施設的には狭いので、どこかに閉じこもることが多いシイやトウ以外の人は毎食以外にも会ったりするのだが、今回は会わなかった辺りトウの説得でもしているのだろう。晩御飯の鐘が鳴ったので、少し心配になったわたしは十号室へ向かってみることにした。
元々一号室に居たので、十号室は一番遠い部屋になる。廊下を歩いて食堂への階段にさしかかった時、十号室から誰かが出てきた。少しはねた黒髪にオーバーサイズの白衣、あれはトウだ。それから少し遅れて、兄さんも出てきた。兄さんはどこか疲れた様子だったが、髪や服は乱れていない。研究に付き合わされることなく出てこれたのだろう。となると、昼御飯の始まりから換算して大体七時間弱も何をしていたのだろうか。
「おおっイッちゃん! やあやあこんばんは! いやこんにちは? それともおはようか? 朝昼晩なんて勝手に職員諸君が言っているだけで、もしかしたら私達の生活は昼夜逆転しているかもしれないよねえ、アハハ!」
袖の余った白衣をパタパタとはためかせて、わたしの元に走ってやってくるトウ。いつもは嫌々ながらにやってくるのに、今日はなんだがご機嫌だ。兄さんも普段より疲れていないし、今日はご機嫌な日、なのだろうか。
「こんばんは、でいいんじゃない?」
わたしが何気なくそう返すと、トウは一層笑った。
「疑問を持つのも大事だと思うけどね」
なんて気楽に笑って兄さんに早く、と手を振る。兄さんも少し駆け足気味でこちらにやってきた。
「今日のトウは元気でな……ずっと話を聞かされたよ。なんだっけ、オイルの方程式的な……」
「オイラーの! 数式だ! これがいかに美しいかを熱弁していたのだよ。全く、分かっていないようだからもう一度教えてあげよう。オイラーの数式は」
「待ったストップ! あとでちゃんと聞いてやるから今は食堂、な?」
そう言った兄さんに、トウははいはい、と指示に従った。今日のトウは、やっぱり機嫌がいい。それに続いて、わたしもついていった。
食堂に付くと、珍しく職員全員が集まっていた。と言っても職員は全員で二人だ。一年前まで鈴木さんも居たのだが、離職してしまった。佐藤さんと東堂さんの隣に、紺色がかった、伸ばせば肩くらいまでつきそうな髪を後ろで束ねている人がいた。恐らくその人が、今回の新人だろう。この施設は今居る人の中で言えばシイしか外部から来ておらず、ほとんどが生まれてすぐに放り込まれているため、新人というのはまた珍しい。いつもは騒がしい食堂も、双方緊張しているのか、東堂さんが居るからか、今日は静まりかえっていた。東堂さんは心底嫌がっていそうだ。
「ほーら座って、三人とも。……おっ、今日はト……、いや! 十号室も居るんだね。全員の顔を見るの、久しぶりかも」
佐藤さんがトウのことをトウ、と呼びかけたとき、東堂さんからの厳しい目に晒されて、言い直していた。そう、わたし達の名前は特に公式的なものではなく、むしろわたし達のようなもの、東堂さんの言葉を借りればクズ共に名前の必要性なんてない。シイもこちらに来た時心底驚いていたけれど、環境への適応はやたら早かった。そういえばシイは五歳からスワヒリ語を知っていたのか。……なんというか、計り知れない。シイの才能というものは。
指示に従って座ると、東堂さんが新人さんを蹴って前に出す。反動でよろけた新人さんを心配するようにラッキーと兄さんが手を出しかけるが、身体能力が高いのだろうか、新人さんはすぐに体制を立て直した。しなやかで華奢な身体のどこにそんな筋肉があるのだろうか。けれど、恐らく身長はわたし達の中で一番高いので、単純な身体の作りの違いではあるのだろう。
「ほら、今日から五号室に入るヤツだ。挨拶の一つでもしたらどうだ」
新人はじっと東堂さんを見つめて、すぐわたし達に目線を向けては、ぺこっと頭を下げて、初めて言葉を発した。
「……五号室に、入らせてもらいます。元々、一番デカいコハク隔離施設に居ました。元々ナンバー5321だったんすけど、まあ、好きに呼んでもらえれば。よろしく」
その声は安心するテノールボイスで、どこか緊張していた場を和ませる。新人さんの不慣れさも相まって、兄さんの保護欲でも働いたのだろう、兄さんが率先して拍手を送ると、次に拍手したのは珍しく、トウだった。それに続いてわたし達も拍手すると、新人さんは少し照れくさそうに笑っていた。
東堂さんはそれを見て、わたし達の緊張が緩んだのが不満なのだろうか、佐藤さんに後を任せて去っていった。佐藤さんは苦笑いして、新人さんに席を案内したあと御飯だけを用意して、
「まあ、仲良くしろよ。あっ、それと、名前決まったら教えてくれな」
とだけ言い残して去っていった。
「あはは、にぎやかになるねぇ! 嬉しいねえ! 賑やかになるのは! ねえ兄さん!」
トウが今日の晩御飯であるトマトスープをゴク、と飲んで笑う。目線を向けられた兄さんはそうだな、と相槌を打った後に、具材であるひよこ豆を食べて、一息おいて話し出した。
「どんな形であれ、人が増えるのは嬉しいよな。トウも嬉しそうで良かったよ。よろしくな」
兄さんが新人さんに目を向けると、新人さんはそっとお辞儀して、
「こ、こちらこそよろしくな」
と言った。
「ところで……その、兄さんってのがお前で、トウ……っていうのが、お前だよな。ここじゃそうやって人の名前を呼ぶのか?」
新人さんはそう不思議そうに尋ねる。それを聞いた兄さんはああ、そうか、と声をあげた。先程の中で新人さんはナンバー5321であった、と言った。恐らくそれが多数派で、わたし達のように名前、愛称で呼び合うのは少数派だろう。ここに初めて来たときのシイとの会話の中でも感じたが、部屋番号から名前をつけるのは、もしかしたら少数派と言わず、ここだけなのかもしれない。
「ああ。僕は二号室だから、兄さんだな。トウは十号室だからトウ。起源は分からないけれど、僕が物心ついたときにはそんなシステムになってた」
「へえ……え、えっと、じゃあ俺も、あった方がいいのか?」
新人さんが兄さんに不安げな目線を送ると、スープを飲み干したトウが身体を乗り出した。
「あるといいだろう! ああ、もちろん君が良ければだが!」
「俺はいいけど……えっと、俺は五号室だよな? 何がいいだろう……。皆はどんな感じなんだ?」
新人さんが皆の顔を見ると、食べるのが一番遅いシイがひよこ豆をつつきながら会話に混ざった。
「自己紹介がてら。わたくしはシイ、六号室よ。名前は六を意味するスワヒリ語から取ったわ」
自己紹介、という言葉に惹かれてか、ラッキーもお茶を飲んでから話し出した。それに呼応して、続々と自己紹介を始めていく。
「ボクはラッキーだよ。七号室なんだ。名前の由来は、昔の兄さんが『らっきーせぶんだね』って言ってたから、そこから……」
「はぁい、アタシ、デス・デス男! 四号室よ。名前の由来はカワイイからよ。響きがカワイイでしょ?」
こうなってくるとわたしも黙っているわけにはいかないので、口を開いた。
「イッちゃん、って呼ばれてるよ。一号室で……。わたしは、自然にそう呼ばれてたかな?」
ふんふん、と聞いていた新人さんは、
「いろんな決め方があるんだな……。この国の言語は数の言い方色々あるし、他言語もあるのか……」
とまた頭を悩ませてしまった。なんだかうずうずとしている様子だったトウが、今だと言わんばかりに話し出した。
「私一押しの名前があるんだが、どうかな! 『郷』と言うのだけれど! 故郷の郷と書いて郷、どうだい? ちなみに由来は私の完全なる第一印象だよ。何だか君に兄さんとは違う、故郷に帰ったような、そんな安心感を感じたんだ。だから、五号室と合わせて、郷! どうかなっ」
手を上げてまでそう言いだしたトウは、我ながら名案だ、と自らで言っていた。それを聞いた新人さんは、少しだけ考えて、満足げに笑った。
「うん、郷……ふふ、故郷から取って、郷か。トウ、それ貰っていいか?」
そう言った彼からは、どこか何かを懐かしんでいるような感覚を受けた。新人さん、改め郷には、郷なりの大切な故郷があるのかもしれない。それはわたし達には分からないけれど、それがコハク隔離施設であれ何であれ、大切な故郷があるように見える郷にはぴったりの名前だと、わたしも感じた。
「もっちろんさ! あはは、なかなか嬉しいものだね、名付け親というのは。以前本に書いてあった名付け親という存在をわたしも体感できて嬉しいよ。うん、それに、単純に、私の案を聞いてくれて、嬉しいな」
そう言ったトウは、今度は哀愁を感じる目で微笑んだ。こんな哀愁漂うトウを見るのも、久しぶりだ。
「わたしも、いいと思う。郷の声、どこか懐かしくて、安心したから」
そう賛成意見を出すと、シイとラッキーも頷いた。
「そうね。アタシもいいと思うわ。アンタの声、なんか安心するのよねぇ」
「じゃあ、改めて。よろしくね、郷!」
そう言われた郷は、心底嬉しそうに笑って、
「おう、よろしくな」
と答えた。その後は、いつもは早く帰ってしまうトウによって郷の声がいかにいいかの演説大会が始まった。その間、郷はずっと照れくさそうだったけれど、まんざらじゃない様子で、こちらまで微笑ましくなって見てしまった。わたし達も、これから始まる郷との楽しい生活に、希望を見出していたのだろう。……郷がデス男と同い年、要は、十八歳であることを知らなければ。
デス男が後四ヶ月だと言ってから、献立が一度更新されたので、後三カ月。たったそれだけの期間しか、わたし達は郷と会話することを許されなかった。
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