第三章
食堂の献立表が更新された。普段は全く見ないけれど、更新日はいつも見に来ている。今日の晩御飯は珍しく豪華で、カニとお雑煮が出て来るらしい。品質はいつも通りだろうが、やっぱり豪華だと嬉しくなってしまう。さらっとだが全日程を見ると、今月はお餅を使った料理が多いことに気づく。定期的に、恐らく一年ごとにやってくるこの餅ブームは何なのだろう。外で餅が流行り、余りやすい時期でもあるのだろうか。
今日はシイとラッキーに誘われて、今から読書会に行く予定が入っている。普段はそれぞれ全くジャンルの違う小説を読んでいる二人だが、定期的に同じ本を読んで感想を言い合う会が開催されている。今回は暇を持て余したわたしに声がかかったこともあって、シイとラッキーとわたしでの読書会となった。
読書会は図書室で、昼御飯の少し後に開催される。その少しというのが本当に少しで、御飯を食べた後に自室に置いている本を持ってくるくらいの時間、となっているので、読み終えて本を図書室に戻していたわたしは少しゆったりしてから参加することができた。
今回の本は恋愛小説で、わたし達くらいの年齢の子が学ぶ場所である高校と言う場所を舞台に繰り広げられる物語だ。主人公であるななこ、という一年生の女の子は、マンションの隣に住んでいる次郎という先輩に恋をする。ただ、たかがマンションが一緒なだけで挨拶をする間柄なだけであるため、次郎はあまりななこのことを意識していない。どころか、次郎は幼馴染である一花ととても仲良しで、ななこが入る隙なんてなくて……というのが話のだいたいのあらましだった。
個人的には一花が勝手に敵視されているところが面白かった。ななこが学校で出会った一花に次郎の話をするシーンは、もどかしかったけれど、一花が全く気付かずにマウントともとれる発言を繰り広げていくのだが、そのときのななこの絶妙な感情と、それを伝える文章力はすごかった。矢崎リーフと言ったか、多分外では有名な作家なのだろう。
献立表の前で考えていると、個室の方からシイとラッキーが歩いてきた。ラッキーがわたしに気づいて名前を呼ぶので、わたしも手を振り返す。
「イッちゃん、もしかして待っててくれたんですか?」
別にそういうわけではないのだが、いや待ってないよ、と言うのも野暮だったので、うん、と返した。
「それじゃあ、行きましょうか。普段は特に部屋が近くない人とやる読書会は図書室で待ち合わせだから、少し嬉しいわね。これもまた、運命かしら?」
最近哲学書を読んだのだと言っていたシタはそれらしいことを言って微笑んだ。そのままの流れで皆で図書室へと向かう。道中、献立についての話で盛り上がった。明後日の献立の朝御飯に、グリンピースが入っていたからだ。これは兄さんがまた頭を悩ませることになるだろう。
「ボクはやっぱりななこに感情移入しちゃったな。だからこそ、最後のシーンは少し泣いちゃって……」
「ふふ、そうね。最後は並大抵のハッピーエンドじゃなく、次郎に告白して振られるでもなく、進学という理由で二人の関係が終わってしまった。告白せずに終わってしまうのね」
「一花とも何もなく終わるし、そう考えると次郎ってとてつもないお騒がせさんなんじゃ……」
「それはどうかしら。次郎だって好きな子が居たのかもしれないわよ? ほら、このページに……」
議論は熱を帯び、最初のシーンからしっかりと議論してしまった。心の揺れ方が繊細に書かれているが直接的な表現はあまりなく、そのせいで各シーンで議論が発生した。基本はラッキーが熱く語って、それをシイが聞いて意見を出す感じだ。わたしはやっぱり話すのはそんなに得意じゃないので黙っていたけれど、聴いているだけでも十分に二人の会話は楽しかった。今もシイが示すページをラッキーが見て、ああでもないこうでもないと言いあっている。わたしも参戦しようと身を乗り出したとき、ラッキーがぽつりと話した。
「ななこは、あれで良かったのかなぁ」
それを聞いたシイが、パタリ、と本を閉じてラッキーの方を見た。
「それじゃあ、あなたさまがななこの立場なのなら、どうしていたのかしら」
「ボクなら? うーん……」
そう言われたラッキーは、どうするだろう、と小さな声で呟いて、下を向いた。うーん、と最初こそ言っていたが、最後には何も言わずに考え込んでしまった。わたし程ではないけれど、ラッキーも熟考するタイプだったりする。けれど議論の場においては誰にも引けを取らないくらい喋るので、上手いこと使い分けているタイプなのかもしれない。というより、目先に何か解決の糸口っぽいものがぶら下がっていたら迷わず飛びつくタイプだ。今回はその糸口が見えないから悩んでいるのであって、もしラッキーの中に糸口があれば今考えずに言葉を飛び出させていただろう。もしかしたらこの問いは、ラッキーにとってとても重要な問いだったのかもしれない。
そんな様子を見たシイは、今度はわたしに目線を向けた。シイはどちらかというと完全に議論に振っているタイプで、答えがなんとなくわかってしまう人だ。わたし達の中で一番幼いのに、わたし達の中で一番賢いとはこれ如何に。
「イッちゃんは一花のことを良く話していたわね?イッちゃんの中で、何か一花との共通点があるのかしら。ラッキーはなんとなく分かるのだけれど……」
微笑みながらわたしに話すシイは、何か答えを知っているような目だ。けれどわたしには答えが分からなくて、何となく、一花に惹かれただけという答えしか出せそうになかった。これでわたし達がどちらも黙ったらそれはそれでシイが拗ねそうなので、ここは素直に言っておく。
「正直、何となく、かな。好きなポイントはさんざん話したけれど、好きになった……感情を持った理由は……あっ」
そこまで言って、ようやく気付いた。
「ふふ、どうしたのかしら」
さあ早く続きを、と言わんばかりにわたしを見つめる視線に答えるように、わたしは話し出した。
「一花が恋愛感情を持っているように見えなかったからかも」
「ふふ、やっぱり、自分に気質が似た子に感情移入しやすいわね」
「シイも?」
「わたくしは……あまり。俯瞰的視点で見ているから。小説も、わたくしのことも」
微笑んで、シイの手元の本に目を向けた後、無数の本たちに目を向けた。少しの沈黙の後、ラッキーが声を出した。
「……ボクでも、同じようにしているかもしれない」
顔を下げたまま語るラッキーに視線を戻したシイは、一瞬だけわたしの方を見て、もう一度ラッキーの方を見た。
「それはまた、どうして?」
「ボクは……ボクには勇気が出ないと思った。何回考えても、結論は一緒だったよ。
好きだと言いたいけど、関係性を崩したくない。それに、認められないんだ。あの子が好きな自分を。ボクは、ここから出たい」
どこか具体性を持った話は、どちらかと言うとななこの話というよりラッキーの話、というように見て取れる。というより、ラッキーはずっとラッキー自身の話をしているんじゃないか、と思ってしまう。シイも恐らく同じ意見のようだが、わたしのように困惑、という感じではなくて、共感するような立場でラッキーの話を聞いていた。
「そうね。あなたさまならそう言うと思っていたわ。わたくしは応援しているわよ。……ところで、そういう立場だと、ラッキーは一花のことをどうとらえた?」
その問いにはラッキーは即座に返した。
「いっそのことくっついてくれたら楽なのに、と思った。いっそ失恋にしてくれれば楽なのに、それなら諦められるのに……」
「ふふ。そう……。時に、わたくしはななこが一花に胸の内を打ち明けることで結末がどう変わるかしら、なんて興味があるのだけれど?」
シイがそういうと、ラッキーは勢いよく首を横に振った。
「いやいやいやいやっ、そんなっ」
「それもまた、あなたさまのためになると思うわよ。なんてったってラッキー、もうタイムリミットは意外と近いのよ?」
ラッキーは長々と考え込んで、今度はわたしに向き直った。目は真剣で、なんだかこちらまで身構えてしまう。
「あのっ」
「はいっ」
勢いよく言われたので、こちらまで勢いよく返事してしまう。シイのふふっ、という呑気な笑い声が異質に響く。
「ボク……兄さんが、多分、好きで」
「えっそうなの?」
今日……いや、生まれてから出した声の大きさでトップ10に入るくらいには声を出した。反射で出たので特に他意はなかったが、ラッキーは少し顔を赤らめていた。なんだか申し訳なくなって、ごめん、と言うと、ラッキーは首を横に振った。
「いや、えっと、気づかれてなかったんですね。シイに初めて言った時は……」
「デス男もわたくしも、トウだって気付いているわよ、と言っただけで、イッちゃんについては言及していないわよ? そしておそらく、当の兄さんも気づいていない」
クスリと笑うシイはいたずらっ子のようで、なんというか、鈍感扱いされているな、と感じた。というか、されていなかったらこんな風には言われていない。兄さんはどこか自分に寄せられる好意には無頓着なところがあるし、自分のことを顧みない人だから分かるけれど、わたしは特にそういうわけじゃないと思っていたのに。……まあ、気づいていなかったわけだが。
「でも、……ボクは、外に出たい。ファーは、チェッカーの色が変わって、外に行きましたよね。ボクも……」
そう言って眉を下げたラッキーは、それ以降の言葉が出てこない、という様子で俯いた。ファーは、五号室に居た住人だ。だいぶ前、といっても恐らく五年ほど前だけれど、わたしが十二歳の時に八歳だったファーは、恋愛というものが全く分からない、身体特徴は男の子である子だった。ファーは旅行好きで、とはいえ中に居てはどこにも行けないので、外に行くことを夢見ていた。真面目に恋愛感情を理解しようとして本や既婚者の職員さん、時には性自認が女性である人たちに協力を仰いでいた。特にインは恋愛観がはっきりとしていて、性自認も女性だったのでよくお世話になっていた。男性を好きになっている時のシイや女性に傾いていてスランプ気味なトウにも手伝ってもらって、ついにチェッカーがブルーになってここを出ていった。彼は外で旅行できているのかな。……チェッカーに偽ることはできないけれど、あの時の彼は、どこか苦しそうだったな。
外に行くには、元の自分を治さなければならない。元々病気でない心を削って、ちゃんとした心を取り付けなければならない。その時の痛みは、その時の辛さは、わたしには計り知れない。健康な心を削って正しい心を入れた彼は、きっとどこかを今日も旅している。
「……全ては天命のままに」
シイが微笑みを落とす。これ以上探究はしない、という意思が感じ取れて、わたしもラッキーも、シイの次の言葉を待った。
「わたくしはこのまま、ここで朽ちるだけ。
こんなところで、と外の人は笑うかしら。けれど、わたくしはいっそそれで良いんじゃないか、なんて思うのよ。わたくしがわたくしで居れるのは今しかなくて、どうしようもなくわたくしは、わたくしで居たいから」
ゆっくりと、ぽつぽつと、流れてくる言葉を大事に受け取る。シイの言葉は、声はとてもきれいで、聞き入ってしまいそうになる。
「けれど……外の世界はわたくしも興味がある。あなたさまの好きなようにやればいいと思うけれど、もしも本当に目指すのなら……そんな運命の人が居てもいいと思うのよ」
席を立つシイは、どこか遠いところを見つめていた。その目の先に何が映っているのか、わたしにはわからない。アレキサンドでの経験は、本の海に溺れている彼女は、何を見つめ、何を考え、何を為そうとしているのだろう。皆遠いように見えて近いところに住んでいるけれど、時に、わたしはシイがわたし達が知らない場所にふと行ってしまうんじゃないか、なんて考えるときがある。それほどまでにシイはどこか神秘的で、不安定だ。
「ねえ、ラッキー。わたくしは時間がないなんて言ったけれど、それは何も考えないままに時を無駄にした場合よ。考え続けなさい。そして、答えを見つけなさい。幸いにもわたくしは貴方の一個下、あなたさまがどのような形で出ていったとしても、最後まで見守っていてあげられるわ。……それに、自ら失恋する手も、あるにはあるのよ」
シイが外を見た瞬間に、晩御飯の鐘が鳴り響いた。
「今日はビンゴね」
と、得意げに笑うシイに、わたし達は唖然とした。まさかあのシイが、鐘の時間を当てるだなんて。ラッキーと顔を見合わせて、もう一度シイの方を見ると、シイはとても得意げに笑っていた。その姿は年相応で、存在感を十二分に発揮していた。そんなシイに少し安心して、わたしは席を立った。
「遅れると怒られるよ」
ラッキーに目を向けると、ラッキーは少し呆然としていたが、はっと我に返ってわたしの方を見た。
「そ、そうだね。行かなきゃ」
手を差し伸べてやると、その手を取って、ラッキーは立ち上がる。わたし達の行方がどうなるかは分からないし、わたしには兄さんを好きになることもできないけれど。この手はまだ暖かくて、ラッキーにはまだ未来があって。今を、まだ繰り返すことができる。残念ながらラッキーの行く先は、もしラッキーの挑戦が二年後も続くならば見届けられそうにない。けれど、いつかラッキーがこの手の温もりを誇れるようになってほしいと、兄さんではないけれど、なんだか親のような視点で、そう思うのだ。
「わたしも、できる範囲で協力させてね」
そう言って笑うと、ラッキーは少し照れくさそうに
「うん」
と笑った。
その後、食堂でなぜか髪がとんでもない乱れを見せている兄さんに出会った。どうしたのか聞くと、トウの実験に巻き込まれたのだと話した。散々なめにあったよと話す兄さんを後目にラッキーの方を見ると、お疲れ様です、なんて笑っていて、明らかな感情の向け方に、わたしはこれに気づかなかったのか、と少しだけ唖然とした。シイはそんなわたしを見て、晩御飯中しばらく笑っていた。今日は東堂さんが当番だったので、晩御飯を配られるときは笑いをこらえていたけれど、東堂さんが居なくなってからは久しぶりにこんな大笑いを見たと言えるくらいに笑っていて、兄さんが訝しんでいた。……シイが楽しそうなら、いいや。……いや、いいのだろうか。
その日の晩御飯は、シイがどうしてこんなにも笑っているのか、その理由を探す兄さんとデス男という構図で盛り上がった。
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