竜と出会った日

雪野スオミ

竜と出会った日

 谷には今日も雨が降り続いていた。いつごろからか、毎日のように降り続く雨は人を寄せ付けず、苔は生え生物たちの住処と成り果てていた。そこには一匹の竜が住んでいた。名前は、いつの頃からかはわからないがその真っ白な体と輝く瞳からユキと呼ばれていた。ユキは何百年という時間を生き、人よりもはるかに高い知恵を持っていた。しかしめったに谷から出ることはなく、一日に数度、その大きな翼を広げるだけであった。

 ある春の日のこと。その日も、翼をはためかせたユキは夜まで眠ろうとその長い体を折りたたんだ。

「ん?」

ユキは自分の尾に違和感を覚えた。

「いつもより重い……?」

ユキは自分の尾を頭の方へと下した。ユキはその尾の先にぶら下がっている物をまじまじと見つめた。

「これは……!」

つやつやとした毛のない腕、大きな目、器用に尾にしがみつく小さな体……。

「なんと……」

人の子供であった。ユキが人間を見るのはもう何年振りであっただろうか。ユキが尾を地面にゆっくりと下すとその子供は尾を離してユキの方をじろじろと見た。

「……なんの用だ」

ユキは子供の目線から逃げるように体をそらした。子供は立ち上がり、ユキを見上げた。

「本当にいた……」

「……?」

「本当に居ましたわ! ドラゴンさん! 本当に居た! 嘘じゃなかった!」

子供は飛び跳ね、ユキの周りを走り回る。

「……何だ貴様は?」

ユキの言葉に気づいたのか、その子供はぴたりと走るのを止めて満面の笑みでユキに近づいた。

「ドラゴンさん、はじめまして! 私の名前はアンナ」

アンナと名乗るその赤髪の少女はユキのことを怖がりもしていなかった。

「なぜこのような場所まで来た?」

この谷は普段から人間は誰も寄りつかない。ましてや竜が住むと噂されてからはあの谷に近づくだけでその者は変わり者であると人間達の間で言われていると鳥が噂をしていたものだ。

「しかし、いや、だとすると……」

ユキが言う前にアンナは口を開いた。

「あのね、私ずっとドラゴンさんのこと、探していましたの」

「ほう、何故だ?」

「私、病気でずっと屋敷に居たからあまり友達と上手にお話できませんの。皆様、何でも出来て、色々なことをご存知で……。でも私は何か得意なことはあるかって言われても何もなくて……」

アンナの声が段々と雨音よりも小さくなっていた。

「そんなときですわ、昔ここで迷子になったことを思い出しましたの。暗くて狭くて……。本当に怖かったですわ。雨もひどくてもう一歩も歩けなくなって……。そして寝ちゃっていましたの」

アンナは座り込んで空を見上げた。

「ですけれど、そのとき白い、大きい何かが私の方にいらっしゃって、私を背中に乗せてくれましたのよ!」

アンナの小さな声をかきけしていた雨が弱まってきた。

「そして目が覚めると私は町外れの公園にいましたわ。最初は夢かと思いましたの。でも私は確かに迷子にもなっていましたし何かに乗っていたのも覚えていますわ」

確かにユキには覚えがあった。かつて谷に迷いこんだ人間の少女を助け出した。

「だから、私、ドラゴンさんにお礼を言いたくてずっと探していましたの!」

そこまで言うとまたアンナの顔が曇った。

「ですけれど、私には友達は居ないし、ずっとこの谷に行ってたからお母様も、皆、気味悪がって私のこと避けるようになって……」

アンナは言葉に詰まった。目には涙が滲んでいる。

「ドラゴンなんて居ない……。嘘つきアンナって……」

ユキはアンナを見下ろし鼻で笑った。

「人間は下らないことを言う。私はここに居るではないか」

アンナはユキを見上げた。ユキが細い目でアンナを見る。

「わざわざ貴様を悪く言う人間と何故つるむ?」

「ドラゴンさんにはわかんないですわ……。一人は寂しいって……」

アンナはそう言って涙をこぼした。

「一人が寂しい……か」

ユキは空を見上げた。

「ならば私のもとに来るといい」

「えっ?」

アンナはユキの顔を眺めた。

「もとは私の責任でもある。私には寂しいというのがよくわからない。……が、貴様がそれで満足するなら遠慮なくこの谷に来るがいい。話し相手くらいにはなってやれる」

ユキの言葉にアンナは信じられないような表情で恐る恐る見上げる。

「……よろしいのですか?」

「ああ、わかったらさっさと泣き止め」

「ありがとうございます! ドラゴンさん……!」

アンナはユキの足に抱きついた。

 それから毎日、ユキの谷にアンナが訪れるようになった。アンナの体は小さく、たいしたこともしないユキにとっては毎日のアンナの話さえ暇潰し程度の居ても居なくても変わらない存在だった。しかしアンナにとってユキは何でも受け止めてくれる優しい存在であった。

「ねぇドラゴンさん。貴方、お名前は何て言うの?」

「名前か……。本当の名は覚えておらぬが、かつて人にはユキと呼ばれていたことを覚えている」

「まぁ! 可愛い名前! 私もそう呼んで良いかしら?」

「……好きにせよ」

アンナはニコニコしながらユキの顔を眺める。

 彼らの会話はいつもアンナの問いかけから始まった。

「ユキさん、ここの谷にはどんな生き物が住んでいますの?」

「あの川には最近子供が増えたトカゲが住む。あの山には最近、コマドリが巣を作った」

「ユキさん、あなたの翼はどれくらいの大きさですの?」

「この程度だ」

「この谷の奥はどうなっていますの?」

「複雑な地形で誰も入ってこない場所だ」

「まぁすごい! 谷のことなら何でもご存知なのですね!」

「当然だ、長い間ここに住んでいるからな……」

ある日はあの森はどこまで繋がっているか、またある日はこの鳥は何という名前か。アンナはユキに様々なことを尋ねた。ユキはアンナの尋ねる全てのことに完璧に答えてみせた。アンナは目をキラキラと輝かせながらそれを楽しそうに聞いていた。

 やがてアンナがユキのもとを訪れてから数年が経った。

「ユキさんは私がここに来る前、いつもどんなことをしていらしたの?」

「起きて、食事をして、あとは寝るだけだったな」

「まぁ! かつての私とあまり変わらなかったのね」

「貴様と一緒にするな」

「あらあら、でも同じですわよ? 今はこうして二人で話せていますけど」

「ただの暇潰しだ」

「ユキさんはそうおっしゃっていますけど、とても楽しいですわ。この時間がいつまでも続けばよろしいのに……」

そう言うと、アンナはため息をついた。

「実は私、明日、遠方の領主様のご子息様との縁談を持ちかけられていますの。お母様は病弱で変わり者の私をもらってくれるからとお喜びになって……。でも私、嫌なのです」

アンナは足下の石を川に投げた。

「……今日はお願いがありますの」

アンナはユキの足を抱きしめた。

「私を遠くに連れていってくださらない? どこか遠い場所で、二人でずっと暮らしましょう……?」

ユキはその言葉を聞いてアンナを眺めた。

「……それは無理だな」

「えっ……?」

「人間と私では生きる時間が違い過ぎる。貴様が必ず先に死ぬ。ずっと一緒など不可能だ。それになぜ住み慣れたこの場所を捨てなければならない」

ユキの言葉にアンナは一瞬驚いたようだが、すぐに口を開いた。

「だ、大丈夫ですわ! なら私がここに住みますわよ。それなら例え私がしわしわのおばあちゃんになってもずっと一緒ですわ!」

ユキは呆れたように尾を降ろした。

「それも無理な話だ。人間は人間の世界で生きよ。ここに貴様の住む場所はない」

「そんな……」

「アンナよ、人間と竜は違うのだ。受け入れよ」

そこまで言ってユキは首を持ち上げ空を見上げた。アンナはユキを抱きしめたまま尋ねた。

「……ユキさんは、私と会えなくなるのが悲しくないのですか?」

ユキは答えなかった。

「……私は悲しいです。ユキさんが私の、たった一人のお友達だから……」

アンナの目にはユキの姿が滲んで見えた。

「ユキさん……。ユキさん……!」

アンナはユキの足下で泣き続けた。

 やがて眠ってしまったアンナをユキは背中に乗せると、町外れの公園へと向かった。久しぶりに見る谷の外の風景はかつてと少しずつ変わっていた。

「……人間とは生きる時間が違うのだ」

アンナを木陰に降ろすとユキは再び谷へと戻っていった。それからユキは谷の奥深くへと住み処を移した。

「ここならば人が迷い混むこともないだろう……」

 こうしてこの谷の竜は二度と人前に現れることはなくなった。代わりに寂しげな声が時折町へと響き渡るという伝説が残る。

 数年後、とある領主の妻がお忍びでここを訪れた。その妻は活動的で、伝説を聞くとすぐに従者にこう告げたという。

「話し相手くらいにはなれますわ」

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