第55話 澄んだ月の夜に
そこは見慣れた自室だった。殺風景な――私の部屋。
私はぼんやりとしたままベッドから身体を起こす。そして思い出そうとした。
いつの間に屋敷に帰ってきたのだろうか、と。
そう……だって私はつい先ほどまで、ウィリアムと馬車に乗っていたはずなのだ。彼に膝枕をしてもらい……とても幸せな気分で満たされていた。それなのに……。
もしやあれは全部夢だったのだろうか。川に落ちたのも、ルイスとのやり取りも、ウィリアムに抱きしめられたのも……私の妄想が見せた夢……?
いや、そんなはずはない。だって私の右手には、白い包帯が確かに巻かれているのだから。
――ということは、つまり……。
私はベッドから降り、裸足のままカーテンを開けた。
外はすっかり暗くなっている。闇夜が街を包み込み、夜空には白い月だけがたたずんでいた。
――彼は……帰ったのね。
そう、ウィリアムは帰ってしまったのだろう。眠った私を起こすことなく、帰ってしまった。それはきっと彼の優しさだったのだろうが、少し寂しい気もしてしまう。
私は窓の外の真っ暗闇を見つめ、小さく息を吐く。――と、そのときだった。
ドアノブの回る音がして扉が開く。同時に、「お嬢様?」と私を呼ぶ、聞き慣れた声がした。
――ああ、ハンナ……!
振り向けば、そこにあるのは二日ぶりに会うハンナの姿。
「ああ、お嬢様……!」
彼女は一直線に私の方へ飛び込んでくる。
その目に大粒の涙を溜め、彼女は私を強く強く抱きしめた。
「お嬢様! お嬢様! ご無事でよかった! 本当に、無事に帰ってきてくださって……!」
彼女はもう十分すぎるほど泣いたのだろう。その証拠に、その声は酷く掠れている。
「私――お嬢様が川に落ちたって聞いて……心配で、怖くて――もう……いてもたってもいられなくて……っ」
嗚咽混じりのハンナの声。
それは本当に温かくて、有り難くて……同時に、彼女をこんなに心配させてしまったことがとても申し訳なくて、思わずこちらまで泣いてしまいそうになる。
だけど私は溢れそうになる涙を抑え、精一杯に微笑んだ。
だって、私はもう後戻りしないと決めたから。後悔しないと、決めたから。
涙も、偽りの笑顔も、もうやめると決めたのだから。
「お嬢様……あぁ、お嬢様……っ」
赤く腫れあがった瞼から大粒の涙をボロボロと零し、彼女は私に縋り付く。そんな彼女の背中を、私は力いっぱい抱きしめた。
心配をかけてごめんなさいと、謝りたくて――。
「お嬢様……私、後悔していたんです。ファルマス伯爵との外出……」
「――!」
ハンナの口から出たウィリアムの名前に、心臓が飛び跳ねる。
「お嬢様が乗り気ではないこと、本当は気付いていたのに……無理やり送り出してしまったって。――でも、今のお嬢様のお顔を見て……私、安心しました」
――そうだ。私が熱を出して眠ってしまっていたから、ウィリアムはきっと説明に困ったに違いない。どのように対処したのだろう。お父様に責められたりしなかっただろうか。
ハンナの表情を見る限りでは、問題があったようには見えないけれど……。
そんなことを考える私の両手を、ハンナの両手が優しく包み込む。
「お嬢様はよくお眠りになっていたのでお気付きにならなかったと思いますが、この部屋にお嬢様をお運びになったのは誰だと思いますか? ファルマス伯爵ですよ。お嬢様をとても大事そうに抱きかかえられて……使用人もいる中で、旦那様に深く頭を下げておいででした」
「……っ」
「ファルマス伯爵は、旦那様にこう仰っていました。お嬢様を、すぐにでも侯爵家のお屋敷にお迎えしたいと。もう二度と、お嬢様を危険な目に遭わせないと誓うと」
「――ッ」
ああ、そんな……。まさかウィリアムが私をここまで運んでくれただなんて。侯爵家の彼が、お父様に頭を下げただなんて。それに――。
ウィリアムと一緒に暮らすって……あれは夢ではなかったんだわ。馬車での彼のあの言葉は、嘘じゃなかったんだわ……!
胸が高鳴る。今まで幾度となく失敗を繰り返してきた私にとって、それは奇跡としか言いようがなくて――。
ああ、神様、感謝します。束の間の幸せであろうと、もう一度機会を与えてくださることに。私に彼をもう一度愛するチャンスをくださることに。
「お嬢様、おめでとうございます。どうか、お幸せになってください」
花のようなハンナの笑顔。野に咲くひまわりのように、明るい笑顔。私の幸せを心から願ってくれている、彼女の思いが嬉しくて――。
――私、頑張るわ。もう一度、彼に愛してもらえるように。あの人の心からの笑顔を見るために。
そして……彼ときちんとお別れするために。あの人を、もう一度愛してみせる。
私はもう一度夜空を見上げた。
そこに浮かぶ丸い月は、あの日エリオットと眺めた月のように澄んだ色をしている。
――月が綺麗だと思うのは、いつぶりかしら。
そんなことを思いながら、私は月に祈りを捧げる。
エリオットと肩を並べて眺めた、湖の水面に揺れる月を思い描いて――白い雪を降らせたようにキラキラと輝いていた、あの日の思い出をもう一度取り戻すために……。
彼の熱情に燃える瞳。その心を、魂を、あの狂おしいほどの愛を……もう一度、必ずこの手に掴んでみせると。
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