第56話 白い月の夜に
微かな灯りさえない、闇に覆われた部屋に差し込むのは、月の弱光だけであった。
その部屋の主であるウィリアムは、窓の側にあるソファーに腰かけ、その背に身体を預けていた。彼はワイングラスを片手に、黙って月を見上げている。
その側には彼の付き人であるルイスが、ワインの瓶を片手に白々しい笑みを浮かべていた。
「今日は大変お疲れ様でございました」
ルイスは述べる。けれどもその言葉には少しも
ルイスの言葉に感情がこもっていないのはいつものことである。けれどさすがのウィリアムも、今日ばかりは不満をぶつけざるを得なかった。
「お前はいったい何を考えている」
ウィリアムは眉間に深い皺を刻みこんだまま、ワインを一口だけ含む。彼はゴクリ――と喉を鳴らして、再びルイスを睨みつけた。
「まったく……お前のせいで余計な心配事が増えた。いったいどう責任を取るつもりだ」
アメリアをこの屋敷に招き入れる。その言葉は嘘ではない。けれど……。
ウィリアムは自分の右手をじっと見つめる。アメリアを抱きしめたときの、得体の知れない感覚を思い出して。
「なぜお前は知っていた。彼女が俺の手を撥ねのけないと。なぜ、俺を拒絶しないと……」
ウィリアムにはアメリアを抱きしめるつもりなど毛頭なかった。
そうだ。昔の男を忘れられないと言っている少女を、どうして抱きしめることなどできようか。そんなことをすれば一層傷つけてしまうだけだ――ウィリアムはそう考えていた。
だからルイスの提案を、最初はのむことができなかった。彼女を抱きしめ、愛を囁け――などという提案は。
「答えろ。なぜ彼女は俺に、あんな顔を向ける」
ウィリアムの腕に残るアメリアの残り香。熱に侵された彼女を抱き上げたときの、不確かな感情。
ウィリアムはその、未だかつて感じたことのない何かに苛立ちを覚えていた。
そんな主人に、ルイスは
「ウィリアム様。確かに私がアメリア様をあなたの婚約者に推薦さえしなければ、このようなことにはならなかったでしょう。けれどアーサー様の件や、アメリア様が声を失ってしまわれたことについては、運が悪かったとしか言いようのないことでございます。ウィリアム様は最善の選択をなさったと、私は心からそう思っております」
けれどウィリアムは、ルイスの言葉を鼻で笑った。
「――はっ、なんという
ウィリアムは語気を荒げ、グラスに入ったワインをルイスに向かってぶちまけた。
赤いワインがルイスの白いシャツに染みを作る。それはこの暗がりのせいか、まるで血のように赤黒く見えた。
けれどルイスは顔色一つ変えない。それどころか彼は嬉しそうに、唇の端を上げる。
「ウィリアム様、覚えていらっしゃいますか。僕らが出会った日のことを。あのときあなたは、泣いていらっしゃいましたね」
「――っ」
その言葉に、ウィリアムは肩を震わせた。急に何を言い出すんだ――と、顔をしかめる。
「あの日の約束を覚えていらっしゃいますか。あれから早くも十五年の月日が流れました。もうあなたは子供ではありません。もちろん、それは僕も同じですが……」
ルイスの表情が、陰る。
「僕がここにいられる時間はあとわずかでございます。ウィリアム様、お願いです。どうかアメリア様を、あの方を幸せにして差し上げてくれませんか。僕のお願いを、たった一つの願いを、どうか叶えてはくださいませんか」
「ルイス……お前……」
ウィリアムはルイスの震える声に、言葉に――大きく目を見開いた。
それはあの日交わした約束。いつかルイスの願いを一つだけ叶えてやると、固く誓ったその約束。
瞬間、ウィリアムは何かを悟ったように俯いた。大切なことを思い出したように、忘れていた記憶を必死に手繰り寄せるように……。
ウィリアムは、苦々しげに呟く。
「それが……お前の願いなんだな」
まるで独り言のように――必死に自身に言い聞かせるように。
「……それが……お前の答えなのだな」
ウィリアムの瞳に揺れる葛藤。それは重く、深く――心が
ウィリアムはゆっくりと目を閉じた。彼は、深く決意する。
再び見開かれたウィリアムの瞳、そこにはもう迷いは見られなかった。
アメリアを幸せにする自信など彼にはない。けれどルイスの願いを叶えてやりたいという、その気持ちだけは彼の瞳に確かに強く宿っていた。
だからもうウィリアムは、それ以上ルイスに何かを言うことはなかった。
ウィリアムはただ黙って白い月を見上げる。
ルイスはそんな主人の背中を――深い憐れみを込めた眼差しで――静かに見つめていた。
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