第8章 偽りの筋書き

第49話 傷跡


 雨が降り出した。


 私はどんよりとした雨空を、窓ガラスごしに見上げていた。まるで今の私の心そのものの、暗く淀んだその色を。


 もうすぐウィリアムが私を迎えに来る時間。けれど私の心は未だ揺らいだまま、何の決心もついていない。


 一晩中考えていた。昨日のルイスの言葉の真意を。そして、私はどうするのかを。

 ウィリアムを愛し、愛されるようにせよ、とルイスは言った。そうすればウィリアムは助かるのだと――。


 でもそれは私にとって、ウィリアムの死の次に辛いこと。

 彼にもう一度愛されたい……かつての私はそれだけを願い、何百年もエリオットの魂を追い続けてきた。彼のために、彼と一緒になるためだけに。

 けれどそれが叶ったことはかつて一度だってない。


 私はやっと諦めたのだ。諦めようと努力して、ようやく諦めた。諦めきれない自分の心を押し殺して、彼が死ななければいいと、それだけで十分だと自分を騙して……。


 でもそれが自分の心に嘘をついているだけだと、誰よりも自分が一番理解している。今だって本当は、彼のことを狂おしいほど愛している。そんな私に、彼をもう一度愛せと言うのか。


 ――ウィリアムを愛する。もう一度、エリオットの魂を……。そして彼にもう一度愛される。それはなんて夢のような話なのだろう。そうして叶い呪いが解けた暁には、ルイスをこの手にかけて、彼の隣で笑えばいい。ルイスは確かにそう言った。


 でもそれは許されないことだ。ウィリアムを救ったルイスを殺めるだなんて……道理に背く行為である。


 確かに私は今まで何人もの人を殺めてきた。それは否定しない。その理由はいつだってウィリアムの命を救うためであり、それは同時に自分のためでもあった。でも、それでも自分のためだけに人を殺すことは避けてきた。それを覆すつもりはない。


 つまりルイスはわかっているのだ。私がルイスを殺せないことを。ウィリアムのために命をかける自身を、私が殺せないことを。


 ああ、ならばどうして彼は私にウィリアムを愛せと言うのか。必ず訪れる別れを知りながら、なぜもう一度愛し合えと……。そんなの悲しすぎる。私には、堪えられない。


 でも、私に選択肢がないのもまた事実。それが彼を助ける条件だと言うのならそうするしかない。……本当に容易い条件。だって私はこの千年の間一度だって、彼のことを忘れたことはないのだから……。


 あとは私がウィリアムに愛してもらえさえすればこの呪いは解ける。でもこの呪いが解けてしまったら、私はルイスと共に彼の傍を離れることになるだろう。


 ――そんなの、嫌。……嫌よ……絶対に、嫌。


 愛されたい、愛されたい、あの人に抱きしめられたい。彼の愛しい名前を呼びたい。でもそうなってしまったら、それが本当に彼との最後になってしまう。


 どうしたらいい、私はいったいどうすればいい。あんな条件、のまなければよかった。愛するあの人と離れなければならないくらいなら……いっそ全て無かったことにしてしまった方がマシだった。あの人との繋がりが無くなってしまうくらいなら……あの人の姿を見ることが叶わなくなるくらいなら……。


 ――もういっそ……逃げ出してしまおうか。


「――っ」


 心が嗚咽する。真っ黒に塗りつぶされていく。もう何も考えたくなくて、考えられなくて。

 私の中のいにしえの記憶が蘇る。愛しい私のエリオット。彼の呼び声が。彼の、温もりが――。


 ――ああ、エリオットに……会いたい。


 そう思った瞬間視界に入る、ガラスに映った自分の姿。それは、忌まわしい過去の自分自身。


「……ッ!」


 気付いたときには、私は拳を高く振り上げて――窓ガラスに打ち付けていた。

 けたたましい音がして、ガラスは粉々に砕け散る。


 ――ああ、なんて顔をしているの。これじゃあまるで昔の自分そのものじゃない。あの頃の弱い私みたいじゃない。


 違う、違う違う違う! こんなの私じゃない。私はもうあの頃のような弱い私じゃない!


 私はただ睨みつける。窓枠の向こうの、寂しげに涙を降らせる暗い空を――。


「……っ」


 つう……と、私の右手から滴り落ちる赤い雫。ガラスの破片でぱっくりと裂けた傷から血が流れ出て、それが絨毯じゅうたんに赤黒い染みを作っていく。


 けれど今の私には、そんなことを気にする余裕が少しもなかった。


 ――ああ、忌々いまいましい、吐き気がする。なぜ、今の私の姿はあの頃の私そのものなのか。記憶の底に閉じ込めていたはずの、あの頃の姿なのか。――あの日のことはもう二度と、思い出したくないというのに……。


「――っ」


 私の心が泣き叫ぶ。

 思い出さないように。思い出さないように。今すぐ思考を止めてしまいたくなる。


 でもそれは叶わない。私の脳裏に鮮明に蘇るのは、あまりにも辛いあの日の記憶。

 目の前で殺されたエリオットの姿。私の身代わりになって死んだ、彼の悲惨な最期。


「――ッ‼」


 嫌……嫌よ、思い出したくない、思い出したくない!


 酷い頭痛が私を襲う。それをどうにかしようと両手で頭を抱えても、その痛みが和らぐことはない。あの日の記憶を思い出すのを、やめてはくれない。


『やめて! やめて! その人に触らないで! お願いだから、その人を殺さないで!』


 ああ、やめて――聞きたくない、聞きたくない!


『エリオット! エリオット! お願い返事をして、エリオット……‼』


 髪を振り乱して泣き叫ぶ、少女の悲しみに満ちた声。


「――っ」


 嫌だ、嫌……ッ。もうやめて、これ以上は、私の心が壊れてしまう……!


 私はその場にうずくまり、自身の身体を抱き締める。過去の記憶に恐怖しながら、震える身体を精一杯……。――すると、そんなときだった。



「アメリア、何をしているの? 今凄い音が……」


 突然聞こえたライオネルの声。途端に意識が現実に引き戻される。


「アメリア! どうしたの、何があったの⁉」


 彼が駆け寄る足音が近づいてくる。けれど私は、顔を上げられない。


「――アメリア? ……その手!」


 その声は焦っていた。私の右手から止まることなく流れゆく血液――それが部屋を、私の髪を、服を、汚していく光景に。


 あぁ、私はいったい何をしているのだろう。人様の家の窓を割り、部屋を汚し、こんな醜い姿を晒して……。

 けれど、もう自分ではどうにもならないのだ。身体が震えて言うことを聞かない。それにこんな顔、絶対に見せられない。


 けれどライオネルは、問答無用で私の右腕を掴んで引き寄せる。


「傷を見せて! あぁ……結構深いね。痛かっただろう? 早く止血しないと」


 彼は私の顔を見るより先に傷の具合を観察し、冷静な声でそう言った。

 その声音に、涙が止まる。あぁ、そうだ。彼は騎士の家の者なのだ。


 彼は私の泣き腫らした顔など気にする素振りもなく、睨むように私を見据える。


「どうしてすぐに人を呼ばないの? ほら、右手は心臓より高い位置に」


 彼は胸ポケットからポケットチーフを取り出すと、私の右手にあてがい、腕を持ち上げる。


「それに、念のため横になった方がいい。顔色がよくないよ」

「…………」


 顔色がよくない……か。それは別にこの傷のせいではない。

 でも、勘違いしてもらえる方が、逆に都合がいいというもの。


「――ほら」


 彼は返事も待たず、私を抱きかかえてベッドまで移動する。そして私をそっと降ろすと、部屋の外へ向かって声を張り上げた。


「誰かいるか! すぐに医者を呼べ! 薬箱を持ってこい!」


 その真剣な横顔と強い口調は、確かに彼が騎士であることを表わしているように見える。

 それでもやっぱり、彼の私を見る目は優しくて……。


「大丈夫だよ。こうしてれば血はすぐに止まるから。傷は……残っちゃうかもしれないけど」


 彼の悲しげな表情に、私は静かに首を振る。傷なんて気にしない、と。

 すると彼は私が強がっていると思ったのか、困ったように微笑んだ。


 少しして、部屋のノック音と同時に執事の声が聞こえてくる。


「薬箱をお持ちしました。が……その、お客様がお見えになっております」

「客……? あぁ、そうか。君の迎えだね」


 ライオネルはすっかり忘れていたと言わんばかりに眉を寄せる。


「少し待ってもらうように伝えてくれ。それより早く薬箱を」

「いえ、それがその……」


 執事が口ごもる――それも束の間。


 勢いよく扉が開け放たれたかと思うと、なだれ込むように誰かが部屋に入ってきた。

それはまさかのウィリアムだった。


 彼の顔色は、体調でも悪いのかというほどに蒼白だった。その後ろにたたずむ、どこか上機嫌なルイスとは対照的に。


 ――ウィリアムの視線が、ベッドの上の私とライオネルに釘付けになる。


 泣き腫らした顔の私と、それに寄り添うようにベッドに片膝を乗せたライオネルに――。

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