第50話 新たな誓い


「何を、している……?」


 それは私の知るウィリアムの声ではなかった。

 何か重大な勘違いをしたであろう彼は、いつもより数段低い声で唸る。


「彼女に――何をした」


 その顔に言いようのない怒りをたたえ、ライオネルの襟元に掴みかかった。

 それはまさしく恋人に手を出された男のように――ウィリアムは、ライオネルを怒りの形相で睨みつける。


 そしてそんな彼の姿に、私は驚かずにはいられなかった。


 だって、ウィリアムがこんな顔をする理由がないのだから。あくまで形式上の婚約者である私のために、こんな風に怒る必要はないのだから――。


 けれどそんな事情を知る由もないライオネルは、あらぬ誤解を受けたことに気分を害したようだった。


「ファルマス伯爵、でしたよね。何か誤解があるようですが、僕は怪我をした彼女の手当てをしていただけ……。ですからどうかお気を鎮めてくださいますよう。彼女が驚きます」

「なん、……だと」

「誤解だと言っているんです。あなたには、彼女のこの怪我が見えないんですか?」

「――っ」


 冷静な言葉とは裏腹に、ライオネルから放たれるウィリアムへの敵意と殺気。

 その殺気に当てられて、ウィリアムはゆらりと一歩あとずさる。自分を憐れむような目で見据えるライオネルに、何も言葉を返せずに――。


 結局二人はそれ以上言葉を交わすことなく、ただ睨み合うばかりだった。


 私がライオネルから手当てを受けている間も、二人の間の重苦しい空気が変わることはなかった。


 ――ああ、いったいどうしてこんなことに? 私がガラスを割ったせい? それに、どうしてウィリアムはあんなに怒ったのかしら……。


 その理由を、ルイスなら知っているはず――そう考えて、私はルイスに視線を向ける。

 すると途端に弧を描く、彼の唇。


 ――やっぱりそうなのね。ウィリアムの様子がおかしいのは、ルイスのせいなのね……。


 私を心配しているように見える彼の態度も、深い葛藤に満ちた表情も――それら全てがルイスの策略によるものなのだと、私は理解する。


 ――ルイス、あなたはウィリアムに何をしたの? 彼に何を吹き込んだの?


 まだたった一日。私がルイスと契約を交わして、ほんの一日しか経っていない。

 けれどそのかんに、たったそれだけの短いあいだに、既に状況は変わってしまった。

 いや、変えられてしまったのだ。ルイスによって。


 ――ああ……このままでは……このままでは本当に……後戻りは、できない……?


 私を嘲笑うルイスの薄い笑みに、全身の毛がぞわと逆立つ。


「もう少し横になっていた方がいいよ」と、私を気遣うライオネルに反応すらできないほどに……私の中の何かが大きく軋む。理性を保てなくなる――。


 何もかもをのみ込んでしまいそうなルイスの真っ暗な瞳に……何も考えられなくなる。

 ウィリアムの辛そうな顔に、ルイスの歪んだ表情に、私の心が悲鳴を上げる。


 ――あぁ、駄目だ。もう……限界だ。


 私の心を守っていた壁が……ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。必死に造り上げてきた心の鎧が、無理やりはがされていく。


 私の中の弱い自分が……本当の私自身が、さらけ出されていく――。


「――っ!」


 ああ、痛い。痛い、痛い――痛い。もう……心が……痛くて。


 自分ではどうすることもできない。

 この涙を止めることができない。溢れ出す想いを……もう、私には……。


「アメリア……どうして、泣いてるの……?」


 私の顔を覗き込むライオネルの姿が、涙で滲んで……もう、見えない。


 ――ねぇ、エリオット、エリオット。あなたはいったいどこにいるの。どうしてあなたはここにいないの? どうして私を抱きしめてくれないの……?


 心が痛い。かつてのエリオットそのままの姿のウィリアムに縋(すが)りたくなる思いを、こらえ切れずに……。


「……アメリア」


 ウィリアムの顔が歪む。苦しげに私の名を呟いて、その瞳を葛藤と焦燥に揺り動かす。

 私の大好きな深い森の草木色の瞳に、私の姿を映し出して……。


 ――あぁ、エリオット。あなたを心の底から愛しているわ。


 私の中でエリオットに微笑みかける昔の私。とめどなく溢れ出す涙とは裏腹に、ウィリアムに微笑みかけるあの日の私。それは――なんという狂気か。


「……アメリア」


 引きつった表情で、私を呼ぶ彼の声。

 それがとても嬉しくて、切なくて、そして――愛しい。


「俺は……」


 ウィリアムの瞳が揺らぐ。そこに映るのは愛情か、それともただの同情か。


 でも今の私には、それがなんだろうと関係ない。

 私にとって重要なのは、彼が私を見てくれているという事実だけ。彼が私のことを考え悩んでくれているという、その一点のみ――。


 涙で滲む視界の中で、私はただウィリアムの姿を捉え続ける。絡まる視線の心地よさに、息をするのも忘れてしまいそうになる。


 そんな時間がどれくらい続いたのか……ようやく彼が、絞り出すような声で言った。


「すまない。……俺を許してくれ」――と。まるで神に懺悔するかのように。


 それがいったいどういう意味か、私にはわからなかった。けれど……。

 狂ったように涙を流し続ける私に、手を差し伸べてくれるウィリアム。

 そんな彼の姿に、私の心は震えた。


「アメリア……、すまない」


 ウィリアムは再びそう呟く。そしてその腕で、そっと私を抱きしめた。


 ――ああ、ウィリアム。


 私にはやっぱり、ウィリアムの謝罪の意味がわからない。

 けれどその腕の温かさは、確かに私の望んでいたもので。ずっとずっと、私が欲しかったもので――。


 ウィリアムの声が、吐息が、私の首筋をくすぐる。


「アメリア……本当にすまなかった。君のことを守れなくて、本当に……。今俺は、とても後悔しているよ。君の側を一時でも離れたことを、後悔している」


 あぁ……懐かしいエリオット。私の愛しいエリオット。彼が今、私に触れている。彼が私を抱きしめてくれている。


 愛している、愛している、愛しているわ。あなたのことを。


 ――そう囁く昔の私。それは誰に対しての愛なのか。私にはわからない。


「君が昔の恋人を忘れられないことは承知している。けれど、それでもいい。それでもいいから――これからは、俺に君のことを守らせてくれないだろうか。俺を許せとは言わないから。憎んでくれて……構わないから」


 苦しみと葛藤に震えるウィリアムの声。私を強く抱きしめる彼の腕。

 それはとても温かくて、優しくて……どうしようもなく、苦しい。


「アメリア……お願いだ。これ以上、自分を傷つけるのはやめてくれ。どうかもう泣かないでくれ。これからは俺が君を守ると誓うから。俺が君のことを愛すると約束するから」

「……っ」


 ――あぁ、それはなんと懐かしい言葉。あの日彼と交わした、深い愛の契り……。

 もう二度と叶うことはないと諦めていた。けれど今、確かに私は彼の腕の中にいる。

 ルイスのおかげで、再び彼に抱きしめてもらうことができたのだ。


 嘘でもいい。これがウィリアムの本心だなんて思わない。けれどそれでもいいの。それでも、私はもう十分幸せよ。


 彼の言葉に応えようと、私はその背中に腕を回す。

 すると彼はとても驚いたように私を見つめた。


「君は……俺を、許すのか……?」

「……?」


 私には少しもその意味がわからなかった。

 けれど私は彼のために、精一杯微笑んでみせる。


 するとその瞬間、大きく見開かれる彼のヒスイ色の瞳――。


「君を必ず幸せにする。神に誓おう――君の傍を、もう二度と離れないと」


 そう宣言した彼の顔は、まるで本当にあの日のエリオットのようで。


 永遠を誓い合った、あの日の彼そのもので――。

 私は溢れる想いを抑えきれず、ウィリアムの胸に縋り付く。


「アメリア、愛しているよ」


 耳元で囁かれる彼の声。愛しい愛しい私のウィリアム――。


 正午を知らせる教会の鐘が鳴り響く。

 いつの間にか雨は止み、虹の掛かる青空に、澄んだ鐘の音が鳴り響く。


 それはまるで私たちの再会を祝福するかのように、何度も、何度も、凛とした音を街中に響き渡らせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る