第44話 創世の神話(前編)
これは遥か昔、この地上に太陽も月も山も無く、人々も生まれていなかった頃の話です。
地上の空のずっと上に、神々のおわす天界がありました。そこは小鳥がさえずり、花が咲き乱れ、ただ穏やかに時が過ぎる、まさに楽園と呼ぶにふさわしい場所でした。
けれどそれゆえに、神々は非常に退屈しておりました。何もすることがないのです。
あるとき、一番偉い神が言いました。地上に楽園をつくる、と。
そのために、地上に七人の神々が降り立ちました。
神々はまずその空に、太陽と月と星々をおつくりになりました。それから天界から運んできた草木の種を大地に蒔き、雨を降らせます。すると地上はすぐに緑豊かな土地になりました。
最後にようやく人間をおつくりになり、愛と勇気と知恵を与えました。
人々は神々の統治する土地で、何不自由なく幸せに暮らし始めました。
同じ頃――その様子を天界からじっと見つめている神がいました。地上に降り立つ七人に選ばれなかった、死と再生の神ハデスです。
彼は神々の中でただ一人、真っ黒な髪と瞳を持っていました。そしてその姿が、周りの神々から疎まれていることを知っていました。
だから彼は、天界を去り地上で人々と暮らせないかと考えていたのです。
ある日、彼は一番偉い神に頼みました。私を人間にしてください、と。
その望みは叶えられ、彼は人間となり地上に降り立ちました。
けれども彼は、すぐに残酷な現実に打ちのめされました。彼の真っ黒な髪と瞳は、人間たちにも受け入れられなかったのです。
彼は人々に追われ、深い森の奥に逃げ込みました。そして人間になっても尚残るその絶大な神の力で、一人の少女を生み出しました。ハデスはその――漆黒の髪と瞳を持つ――美しい少女にソフィアと名付け、それはそれは大切に育てました。
ソフィアが言葉を話せるようになると、ハデスは言いました。
「いいか、けっして私以外の人間には近づくな」
ソフィアは尋ねます。
「どうして?」
「我らの黒い髪と瞳、それを人間は恐れるからだ」
ハデスの悲しげな表情の意味が、幼いソフィアにはまだわかりませんでした。
それから何年も――何十年も――何百年も、ハデスとソフィアは森の中で二人きりで暮らしました。
ソフィアはハデスの言い付けを守り、森の外へ出たことはただの一度もありません。
そうして千年がたったある日、一人の青年が森へ迷い込んできました。青年は深い傷を負っていて、今にも死んでしまいそうでした。
ソフィアは初めて見るハデス以外の人間の姿に驚きました。けれど、青年の辛そうな表情に、思わず手を差し伸べてしまいます。
青年もまたソフィアの人間離れした容姿を恐れますが、傷の痛みに気を失ってしまいました。
しばらくして青年が目を覚ますと、傷が綺麗に消えているではありませんか。
青年は、少女が傷を癒やしてくれたことをすぐに理解しました。そして少女に一言お礼を言おうと、森の奥へ奥へと進んでいきます。
しばらく進むと、澄んだ水をたっぷりとたたえた美しい湖が見え、そこから歌声が聞こえてきました。小鳥がさえずるような可愛らしい歌声に、青年は心打たれます。
青年はそっと少女に近づき、声をかけました。
「君が僕を助けてくれたのか?」
少女はその声に肩を震わせましたが、青年の優しげな笑顔に、ハデスの言い付けも忘れて言葉を返します。
「そうよ」
ソフィアは無意識のうちに微笑んでいました。
青年は、その笑顔と鈴を鳴らしたような声に、一瞬で心奪われます。
「僕の名前はカイル。君の名前を教えてほしい」
「ソフィア。……ソフィアよ」
「ソフィアか。美しい名だ。助けてくれてありがとう、ソフィア」
ソフィアも、カイルの凛々しくてたくましいその姿、そして優しげな笑顔に、自然と心引かれました。
ソフィアはカイルから、外の世界がどうなっているかを聞きました。
既に地上に神はおらず、人々は争いを繰り返している、カイルは悲しそうにそう言います。
カイルは隣国の王子でした。内乱の末、国から逃げ出してきたのです。逃げる間に臣下ともバラバラになってしまって、行くあてもないとのことでした。
ソフィアはカイルを家に連れ帰りました。彼女はハデスに頼みます。どうか彼をここにおいてあげてほしい、と。
けれどハデスが頷くことはありません。それどころか今までにない形相で怒ります。なぜ言い付けを破ったのか、と。
ハデスは既に気が付いていました。ソフィアがカイルに惹かれていることに。そしてまた、カイルもソフィアを愛してしまっていることに――。
ハデスはそれがどうしても許せませんでした。ハデスもまた、自らの手で生み出したソフィアを心の底から愛してしまっていたからです。
それにハデスは理解していました。人間の命の短さを、儚さを。神の力を持つハデス、そしてそれを受け継ぐソフィアと、人間のカイルとでは生きる時間が異なることを――。
ハデスの怒りを買い、湖のふちで泣き崩れるソフィアを、カイルは強く抱きしめます。
「僕と一緒にこの森を出よう。君と一緒なら、もう一度やり直せる気がするんだ」
ソフィアは頬を赤く染めました。けれどもすぐには頷けませんでした。自分がいなくなったらハデスは独りきりになってしまいます。彼女はそれがどうしても気がかりだったのです。
ソフィアはカイルに数日待ってほしいとお願いし、ハデスの元に戻りました。
そして再びハデスに懇願します。
「あの人をここにおいてください」
「それはできない」
ハデスはソフィアを睨むように見つめます。
「わからないのか。お前とあの男とでは、生きる時間が違うのだ」
「それでも、ほんの短い時間でも、私はカイルと一緒にいたいの。ごめんなさい、ハデス。私、彼を愛してしまったの」
ソフィアのその言葉に、ハデスはとうとう諦めました。
彼はまた理解していたのです。いつかこんな日が来ることを、ソフィアが自分のもとを去ることを。それをわかっていて、彼は自分のつくりあげた器に、確かに人の魂を入れたのですから。
「ならばあの男と共にここを去るがいい。だが二度とこの森に立ち入ることは許さん」
その言葉を最後に、ハデスはソフィアと二度と口を利くことはありませんでした。
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