第32話 思い出――ある夏の日(後編)


 それからどれくらい経っただろうか。ようやく……彼が呟いた。


「ユリア、大丈夫?」

「――っ」


 その声はいつものように優しくて、やわらかで。けれど、その優しさが今は痛い。


 それに、いったい何に対しての大丈夫なのか、わたしにはわからなかった。


 わたしは彼の真意を確かめたくて、ゆっくりと顔を上げる。

 すると同時に、彼が呟く。


「ごめんね」

「……ッ!」


 それは、わたしの想いを否定する言葉――。

 彼の真剣な表情に、わたしの心は粉々に砕け散る。


 あ――駄目だ、泣く。


「……っ」


 わたしは泣き顔を見せたくなくて、彼に背中を向け走り出した――けれど。


「違う、そうじゃないんだ! 待ってユリア! 行かないで!」


 彼の叫び声がして、腕を思い切り掴まれる。

 その反動で、わたしは背中から彼の胸に倒れこんだ。


「やだ……っ、聞きたくない。放して!」


 それでもわたしは抵抗して、彼の腕を振りほどこうとした。


 けれど、振りほどけない。彼の力は……もうわたしよりずっと強くて……。


「違う、違うよ! ごめん! 僕……あまりにびっくりして」


 わたしの身体を背中から抱きしめる彼の腕。――聞いたことのない、不安げな声。


「君は僕の気持ちに、とっくに気付いてると思ってた。だから……その、つまり――僕は君のことが……好きなんだ」


 ――え?


 それは突然の告白だった。ほんの少しも予想していなかった、彼の愛の告白だった。


「……今……なんて……」


 思いもよらない展開に、わたしは放心する。


 そんなわたしの耳元で、優しく囁く彼の声。


「ユリア、好きだよ。……いいんだよね? 君も、僕のことを好きだと思ってくれてるってことで」

「――っ」


 ――ドクン。


 鼓動が高鳴る。さっきよりも、もっと強く。


 わたしは彼を振り返り、ゆっくりと顔を上げた。

 いつの間にかわたしの身長を超えてしまった、彼の顔を――。


「そう……だったの?」


 わたしの口から漏れる、間の抜けた声。

 その問いに、彼はいつものような笑顔を見せる。


「そうだよ。君のことが好きじゃなかったら、毎日会いに来たりしないよ」

「そう……なの……?」

「そうだよ」

「……本当、に?」

「うん。本当に気付いてなかったの? 僕は、君が僕の気持ちを知ってるとばかり――」

「……そんな。だって……そんな素振り、少しも……」

「それ、君が言うの? 君の方こそ、僕を好きだなんて一度も言ったことないだろう?」

「それは……そうだけど……」


 あぁ……なんだ、そうか。そうだったのか。彼も……わたしを……。


「……あ」

 やだ。安心したら、涙が……。


「ちょ、ユリアどうしたの⁉ どこか痛い⁉ 僕が手を引っ張ったから」

 泣き出してしまったわたしに、途端に顔を蒼くする彼。


「ちが……違うの。だって……あんまり、びっくりして」

 わたしは泣きながら、それでも必死で笑顔を作って――。


「嬉し……泣きよ」

「――っ、ユリア!」


 次の瞬間、わたしは抱きしめられた。

 いつの間にかたくましくなった彼の胸板から……彼の鼓動こどうが伝わってくる。


 心地いい。安心する……。けれど――。


「い……痛い、わ」


 彼の腕の力の強さに声を漏らすと、彼はハッとしてわたしの身体を引き離す。


「ごめん、ユリア! つい――抑えられなくて!」


 その焦った顔がおかしくて、嬉しくて、わたしは吹き出した。


「ふふっ」


 すると彼も釣られて笑い出す。


「ははっ、あははははっ!」


 なぁんだ、そうだったのね。わたしたち、本当は両思いだったのね。


 安心したわたしは、先ほどの不安はどこへやら――いたずら心を芽生えさせ、彼の腕を掴んでぐいっと引き寄せる。そうして、彼の頬に口づけた。


「ちょっ、ユリア、何を……」


 彼はパクパクと口を開け、顔を真っ赤に染め上げる。

 その姿が可愛くて、愛しくて、わたしは微笑んだ。


「さっきわたしを不安にさせたお返しよ!」

「――っ、それは……反則だよ」


 彼は顔を赤らめたまま、急に真面目な顔をする。

 そして、わたしの両肩をがしっと掴んだ。


「……え?」


 これは、もしかして……もしかしなくても。


「ちょ……さ、さすがにそれは……わたしたち、まだ子供よ」


 わたしは急に恥ずかしくなって、彼の胸を押し返した。でもびくともしなくて。


 それに――彼の熱を帯びた瞳がわたしの心を捕えて――もう、何も考えられなくなった。


「ユリア……好きだよ。ずっと、僕と一緒にいてほしい」

「……うん」

「あぁ、ユリア――!」


 そしてわたしたちは、そっと唇を重ねた。


 *


 わたしたちは二人、大木の太い枝に腰かけ、眼下の景色を眺めていた。

 じきに日が暮れる。ひぐらしの鳴き声が、一日の終わりを告げる。


 先ほどまでの暑さが嘘のように、辺りは森のひんやりとした澄んだ空気で満たされていた。森も、草原も――町も、だんだんとくれないに染まっていく。


 そんな美しい景色を見下ろしながら、わたしは隣の彼に問いかける。


「ねぇ、どうしてさっき……」

「……ん?」


 彼の顔がわたしの方を向く。彼の瞳も、淡いオレンジ色に染まっていた。


「なんで……ごめんって言ったの?」

「……え? ――あ、あぁ」


 彼は一瞬考えて、恥ずかしそうに俯く。


「だってかっこ悪いだろ? 僕の方から言うべきだったのに」

「――っ」


 先ほどのことを思い出したのか、耳まで赤くする彼。

 それが本当にかわいくて愛しくて、わたしは彼の肩に頭をもたれる。


「本当に……あなたって人は……」


 どこまでも――本当に真面目なんだから。


 そう思ったところで、わたしは先ほどから抱いていた違和感を思い出した。


「ねぇ?」

「どうしたの?」

「あなた、いつの間に背伸びたの? ちょっと前まで、わたしの方が大きかったじゃない」


 なんだか彼が知らないうちに、別人になってしまったような……そんな違和感。


 けれど彼は、わたしの問いを笑い飛ばす。


「ははははっ! 何言ってるの、ユリア! もうずっと前から僕の方が大きかったでしょ?」

「……え?」


 あれ? そうだったかしら?


「僕たちもうすぐ十四歳になるんだよ? 忘れちゃった?」


 彼はひとしきり笑ってから、自分の腕をわたしの目の前にぐいっと突き出す。


「ほら見てよ! 最近筋肉もついてきたんだよ!」


 自慢げに鼻を鳴らし、二の腕に力を込めてみせる彼。

 そこには確かに、わたしとは比べものにならない、ぽっこりとした力こぶがあって……。


「……本当、ね」

「でしょ? それに……君だって……その」


 言いかけて、彼は再び顔を赤くする。


「……?」

「君だって……とても綺麗になったよ。昔からずっと可愛かったけど……最近は、もっとずっと、綺麗になった」

「――っ」


 熱を帯びた彼の瞳。その瞳に見つめられると――たまらなく、恥ずかしい。


「あぁーもう、ユリア、君本当に可愛いすぎるよ! 僕、今、夢を見てる気分だよ」


 言葉と同時に、手をぎゅっと握られる。わたしより大きな、力強い手のひらで。


 わたしはそれがやっぱり恥ずかしくて、彼の顔を見れなくて。

 だからその代わりに、必死の思いで彼の手を握り返す。


「ゆ……夢じゃ、困る……わ」

「うん、そうだよね! 僕も困る!」


 そう言って、彼は笑う。


「ふふっ、なに、それ」


 わたしも――笑う。


 そうやってわたしたちは、日の暮れるギリギリまで、二人きりで過ごした。

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