第5章 ユリアと少年

第31話 思い出――ある夏の日(前編)


 風が……かおる。


 ここは、どこ……?


「――! ――……ア!」


 誰かしら。わたしの名前を呼んでいるのは……。


「……リア!」


 あぁ、頬を撫でる風が心地いい。……木漏れ日が、眩しい。


 聞こえるのは……懐かしい声。


 そう――そうだわ。ここは……。


「ユリア――ユリアってば! またそんなところに登って!」

「――っ」


 聞き慣れたその声に、わたしはハッと飛び起きた。

 目を開ければ、そこに広がるのは青々とした草原と、よく見慣れた町。


「……あ」


 それを確認すると同時に、ぐらっと傾くわたしの体。


「っとと」


 危ない危ない。いつの間に眠ってしまったのだろう。

 わたしはバランスを取り直し、声のする方に視線を下ろす。


「ねぇ、ユリアってば!」


 そこには十歳ほどのまだあどけない少年がいた。

 困ったような、怒ったような顔をして、木の下からわたしの名前を叫んでいる。


 ああ、そうだわ。わたし、待ち合わせをしていたんだった!


 そのことを思い出し、わたしは頬を膨らませた。


「ちょっと! あなたが大声を出すから落ちそうになったじゃない!」


 そう言い放ち、さっと木の下へ飛び降りる。

 すると彼は急いで駆け寄ってきた――が、その顔は不満げだ。


「もう……何だよ、木の上なんかで寝てるのが悪いんだろ。女の子があんな高い所に登って、本当に落ちて怪我でもしたらどうするんだよ」

「何よ、あなたが待たせるのが悪いんじゃない」

「それは……そうだけど。仕方ないだろ、店の手伝い終わらなかったんだから」

「またそんなこと言って! じゃ、いいわよ。せっかく木苺きいちごのジャム持ってきたのに、あげないから」


 わたしはつんと顔を背ける。

 本当はあげないつもりなんてないけれど、ちょっとだけ意地悪を言ってみたくなって。


 ――木苺のジャム。家の裏に生えている木苺で、おばあさまが毎年この時期に作る、彼のお気に入りのジャム。少し酸味があって、それでもとっても甘くて、わたしも大好きだ。


 わたしが横目でちらりと彼の様子をうかがえば、彼はショックを受けた顔をしていた。


 ――もう、本当に素直なんだから!


 わたしは吹き出しそうになるのをこらえ、木の根の陰に隠しておいたカゴに手を伸ばす。


「もう、嘘よ。ウ・ソ! ちゃんとあげるわよ。ほら」


 わたしはカゴから真っ赤なジャムの詰められたビンを取り出して、彼の前に差し出した。すると彼はホッとした顔でビンを手に取り、屈託のない笑顔を見せる。


「ありがとう、ユリア! 君のおばあさまのジャム、本当に好きなんだ! 何かお礼しないとな。ユリアは何がいいと思う?」

「――っ」


 太陽みたいな彼の笑顔。


 栗色の髪も、ヒスイ色の瞳も、額に浮かぶ玉のような汗すらも――夏の強い日差しにも負けないくらいキラキラと輝いて、眩しくて……胸がきゅうっと締め付けられる。


 わたしはこの人のことが、たまらなく……好き。


「ユリア、どうかした? 顔が赤いよ?」

「――っ!」


 気付くと、彼の顔が目の前に迫っていた。

 その見つめるような視線に、わたしは無駄にドキドキしてしまう。


「な、ななな、何でもないわよっ! そ……それ、より……」


 わかっている。きっとこの恋は一方通行。というより、多分まだこの人は、恋や愛には興味がない。だからわたしはこの想いを、まだ伝えていない。


 けれど、せめて――。


「それ。その、ジャム……」

「……?」

「わ――わたしが、作ったのっ!」


 そう。そのジャムは、わたしが初めて作ったジャム。

 あなたのために作った……初めての、ジャム。


「え……ユリアが?」


 刹那、彼の両目がゆっくりと見開かれた。それはとても驚いた様子で。

 そんな彼の表情に、わたしの心臓が不安で飛び跳ねる。


 ――どうしよう、やっぱり嫌だっただろうか。やっぱりおばあさまのジャムの方が良かっただろうか。美味しいかどうかもわからない、わたしのジャムよりも……。


 どうしよう、どうしよう。カゴの中にはおばあさまのジャムも入っている。今からでも取り替えて……。


 けれど、そんなわたしの不安な心など一瞬で消し去ってしまうように――。


「ありがとう、ユリア! 僕、すごく嬉しいよ!」


 弾けるような笑顔を、わたしに向けた。


「――っ」


 瞬間、わたしの心臓が再び跳ねる。


 彼の笑顔――わたしに向けられる、彼の視線。

 それがとても嬉しくて、あまりにも眩しくて……今にも溢れ出しそうな想いが、わたしの胸を締め付ける。


「ユリア? どうしたの? 僕、何か変なこと言ったかな?」

「な、なんでも……な……っ」


 胸が熱くて、苦しくて、上手く言葉が出てこない。


 彼はそんなわたしを不思議そうに見つめ、あっと声を上げる。


「そうだ! お礼!」

「……?」

「このジャムのお礼、ユリアにしなくちゃね!」

「――っ!」


 そう言って、無邪気に笑う彼。


 ――うう、なんて素敵な笑顔なの。お礼なんて、してもらうつもりはなかった。ただ受け取ってもらえればそれだけで十分。そう、十分だ……と、思っていた。――けれど。


「ユリア、何か欲しいものはある?」


 彼の透き通った瞳に、純粋な優しさに、欲が出てきてしまいそうになる。


 ああ、どうしよう、嬉しい。本当に、嬉しい。


「え……っと」


 どうしよう、欲しいもの。欲しいもの……。


 本当に欲しいものなんて決まっている。彼が、わたしだけを見て、わたしだけを好きになってくれること。――けれど、そんなことは口が裂けても言えない。


 だからわたしはよく考えて、決めた。


「今度……すぐにじゃなくていいから……あなたの都合のいいときで、いいから……」

「うん?」

「一日中、一緒に……いて……くれないかしら」

「……え?」

「あっ」


 言ってしまって気が付いた。

 これではまるで告白だ。彼のことが好きだと、言ってしまっているようなものだ。


 わたしは慌てて、言い直す。


「べ、別に深い意味は! ほ、ほら、わたしたちって、いつもは長くても一、二時間しか一緒にいられな――じゃなくて、えっと……ほら、たまにはもっとお話したいな、とか……思って」


 どうしよう。言えば言うほど空回りしてしまう。恥ずかしい。きっと呆れられてる。


 わたしは今にも泣き出しそうになりながら、ちらと彼の様子をうかがった。

 すると彼は驚いたような顔で、何かを考えているような素振りを見せる。


「……っ」


 瞬間――わたしは後悔した。

 同時に、何も答えてくれない彼に、とても悲しい気持ちになった。


「……あ、あの……わたし……っ」


 もういやだ。消えたい。今すぐにここから逃げ出してしまいたい。どうせならもっと別のことを言えば良かった。彼を困らせないような、もっと普通のお願いをすれば良かった。


 わたしは自分のつま先を見つめ、どうにか言葉を絞り出す。


「や……やっぱり、他のことにしようかしら。あなたも、忙しいと……思うし」

「…………」


 ああ、どうして彼は何も言ってくれないのだろう。嫌なら嫌って言ってくれればいいのに。


 断られるのは辛い。だけど、何も言ってもらえないのは……もっと辛い。


 わたしは唇を結ぶ。――恥ずかしい……泣きたい。

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