遠くへの手紙

 結局のところ俺はただ狂いたかったのだ。


 狂気とは現実との解離であるから、正気を手放せばあの頃に戻れると。


 夢を俺だけの現実にできると。


 彼女がもういないという事実を拒絶し否定して幸福の繭にこもり、腐り果てるまで闇の中にありもしない光を見続けていられると。


 信じることで人の形を保っていた。


 水の入ったポリ袋みたいなぐにゃぐにゃの塊になった俺には、地球の重力から解き放たれるか、針に引っかかって中身をぶちまけるくらいしか希望がなかった。






 樹脂で彼女の手を作るのはかなり骨が折れた。


 微修正を繰り返しながら型を何十個も作り直し、納得のいく造形ができたところで型に流し込んだ樹脂に骨壷から盗んできた骨の欠片を封入した。どこの部位の骨かはわからない。どこだって彼女の一部であることには変わりない。


 彼女の写真を見ながら執拗に塗装を重ねた。手の平の皺、うっすらと青黒い血管、親指に残る色の抜けた小さな傷跡。完璧とはいかないまでも、薄目で見ればわずかに脈動しているようにも感じられた。そうして彼女は手だけで俺の元へ帰ってきた。


 大量のシリコン型と、微妙に形の違う半透明の手が、ワンルームの部屋に積み上がった。そこは彼女の抜け殻でできた色のない珊瑚礁で、俺は場違いな深海魚だった。


 来るなと言ったのに無理矢理部屋に上がり込んだ友人は一言、


「狂ってるだろ」


 と言った。


 俺は可笑しくて、久々に大口を開けて笑った。俺はどこまでも正気だった。気が狂いそうなほど正気だった。彼女の死という現実を一瞬たりとも忘れることができないのだから。


 友人は死にかけの怪物を見るような沈んだ目をして口を閉ざしていた。






 友人が置いていったチラシは優しさの押し売りみたいな淡いピンク色で、「死別」「悲しみ」「語り合い」といった単語が切れ切れに目に入った。


 あいつはこの悲しみを他人と分かち合えと言いたいのか。この絶望を知らないくせに。俺の悲しみは俺だけのものだ。わかったような顔で勝手に解釈なんかされたくない。


 チラシを真ん中から力づくで引き千切った。


 床に散らばる切れ端の一つが、「故人への手紙」という文字を主張する。


 彼女に手紙なんて書いたことがなかった。手紙にする必要なんてなかった。俺たちには同じ空間を震わす声があった。存在を確かめ合う体温があった。






 テーブルを覆う樹脂の粉を払って、破り取ったノートの一ページを置いた。


 何を書くべきかわからない。


 語るべきことはいつも彼女がその深い森のような眼差しで引き出してくれていた。


 彼女は俺の半身だった。


 俺の半分に彼女は深く緻密に根を張っていた。俺もまた彼女の半分に浸透していただろう。


 彼女は去った。彼女の中の俺を連れて、俺の中の彼女を乱暴に引き抜いて。そうして残されたのは半分になった崩れかけの俺と、千切れて萎れた彼女の根の先。


 左手を彼女の硬い手に絡め、右手にペンを握った。


 会いたい。


 会いたい。


 どうしてここにいないの?


 裏切者。


 俺の気持ちも全部知ってるはずなのに、どうして戻ってきてくれないの?


 置いていかないで。


 君が足りない。


 今までの時間じゃ全然足りない。


 君に乾いて干からびて砂になってしまいそうだよ。


 もっとずっと君を見ていたかった。


 何でもない日々を一緒に過ごしたかった。


 もっと君に与えればよかった。


 もっと君を幸せにできればよかった。


 俺は君といて幸せだった。


 ずっと君を想ってる。


 愛してる。






 濡れてふやけた手紙を封筒に入れ、足裏にクッションでも付いているみたいな目眩に酔いながら外に出た。宛先も差出人も書いていない手紙を、白昼夢のようにのっぺりと赤いポストの口に差し込んで、手を放した。ポストの腹の中でカサリと音がした。手紙を取り戻すことはもうできない。俺の手はもう届かない。


 彼女は俺の隣にはいない。でもこの手紙がもしも彼女に届くなら、そんなに遠くにはいないのかもしれない。


 どこか遠い異国の地で彼女が笑う振動を感じた気がして、俺は狂気を諦めた。

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