世界茸(後編)
岩盤はさらに抉られ、生白い茸の脚が人工の光に晒されていた。ぬらぬらとしたその根の内部を今も蒸気となった魂が流れ、母となる者の内に生命を宿している。
「王は狂っていると思われますか?」
俺の問いかけに博士は巨大な茸から視線を下げて俺を見つめた。
「この決断は理に適っていると思うよ。この先も戦いが長く続くなら、かつ敵国を徹底的に滅ぼしたいのならね。まぁ、狂人扱いされてるあたしが言っても仕方ないけど」
「あなたは正気ですよ。私の知る限りずっと」
博士はふっと息を漏らした。
「冥界にまで子種をぶんどりに行こうとする不妊の狂女。その評判もあながち間違いじゃない。このお腹に届く前に途絶えてしまっているらしい冥界の根をちゃんとつなげられたら、って」
「……いずれつなげるおつもりなんですか?」
博士はきっぱりと首を振った。
「あたしは子供が欲しかったんじゃない。子が産めないことで馬鹿にされたくなかった。あたしはあたしの命が無駄じゃないって証明したかっただけなんだって、王様に認められて気付いたよ。それに」
博士の視線の先では作業員たちが茸の根の横に長尺の両手挽鋸を設置している。隣国につながる根だ。
「敵国とはいえあたしは女たちから未来の子供を奪う。そのことを忘れてはいけないから」
博士が手を振ると作業員たちは交互に鋸を引いた。軟らかな菌糸はぽろぽろと屑を落としながら刃を受け入れる。傷口から液状の魂が流れ出して俺たちに降り注ぎ、何も濡らすことなく海へと滴り落ちていった。
禁忌を犯していることは関係者の誰もが自覚していた。それでも叶えたいものがあった。
俺もまた夢を見たかったのかもしれない。
死者の魂が形を変えることなく舞い戻ってくる不死の王国。死は別れを意味しない。望めば必ずまた出会うことができる。
喪失という不幸が抹消された永遠の国。
城が焼けた。
暴動はついに内戦へと発展し、これを好機と攻め込んできた隣国と合わせて三つ巴の様相を呈していた。
幼い姫様の手を引いて歩いた城下は炎と怒号に支配され、王と側近は着の身着のまま逃げ出して片田舎に匿われた。
冥界の研究に投じた莫大な予算が王に対する不信の一因となったのは明らかだった。
王は気落ちして病み付き、後継者であった姫はもういない。顔を隠して王都へ様子を見に行った大臣は、平民出の新たな指導者が市民を率いているらしいと報告した。行くべき場所も帰る場所ももうなかった。
我々は間違っていたのかもしれない。だとしてももう手遅れだった。あまりにも多くを失ってしまった。人も、暮らしも、手付かずのまま保ってきた姫の部屋も。しかし犠牲となった彼らの命だけは、その魂は、まだ冥界に留まっている。
俺にとってはどこか懐かしい水田に囲まれた屋敷で、王は床に伏していた。側近たちの慰めも虚しく、ほとんど口も開かないまま王は目に見えて衰えていった。付き従っていた者のうち何人かは絶望に囚われた王に見切りを付けてどこかへ去った。
俺はいなくなった侍従長の代わりに王の身の回りの世話を焼き、やることがなくなると王の布団が呼吸に合わせて浅く上下するのをただ眺めていた。
王を失う時が近付いている予感はある。それでも王はまだここで稲の青臭さの混じる空気を吸い、痛みの匂いのする息を吐き出している。
いつの間にか王の目が開いて俺を見ていた。
「何か私にできることはございますか?」
俺が問いかけると王は紫色になった唇をわななかせ、娘に会いたいとだけ望まれた。
無人になった冥界の入口を、明かりも持たずに降りて行く。手摺を伝って梯子のような木の階段を下り、分かれ道を左へ。幾度も通った経路だ。体が覚えている。
死者たちの形が朧に残る水面に至り、空中に吊られた通路をひたすら歩く。行き止まりには人の背丈ほどの鋼鉄の滑車。そこに巻かれたロープを腰に装着する。
通路の端を蹴って、魂の海を垂直に下りて行く。引き上げてくれる者はいない。
頭の先まで海に浸かると流体になった死者たちがあらゆる感覚器官に押し寄せる。むせ返るような生の匂い、同時に響く何百もの声。胸が苦しい。泣いている。死者が、いのちが泣いている。
海底に近付くにつれ霊の流れが見えるようになる。真下にある袋状の菌糸の網からは、一際激しく霊が噴き出ている。
これが王国を覆う冥界の枝の行き着く先。隣国の枝との分離が難しく手付かずになっていた魂の源流。
湧き出す霊はまだ完全に人の形を保っている。若者や子供も多い。どれが王国民でどれが敵国民かなど判別のしようがない。既に意識をなくした王もいずれここからおいでになる。その前に。
岩盤に食い込む枝と菌糸の袋の境目にナイフの刃を差し込む。太い菌糸は音もなく切れて、魂の流れが激しくなる。
失うことに疲れてしまった。
もう失わずに済むのなら。失ったものを取り戻せるのなら。
俺は人を辞めたっていい。
切断された枝は幾本もの新たな菌糸を伸ばし、早くも再生を始めている。死者の命を流し込む先を求めて。
命綱を引き剥がし、シャツを脱ぎ捨てて、枝の断面を裸の腹に押し付ける。
菌糸が食い込み、皮膚を破る。痛みはない。満たされてゆく。吐きそうなほどに。
どこの人間でも構わない。何人でも、何度でも死ぬがいい。何度でも産んでやる。同じ母から産まれたきょうだいとして。一人残らず慈しんでやろう。
既に失われた古い魂もその残滓を掻き集めて復元しよう。
そうして何一つ失われない、永遠の家族を完成させるのだ。
(了)
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