世界茸(中編)

 巨人が大地を叩き割ろうとした跡のような裂け目が木の根に半ば隠されて口を開けていた。それが冥界の中枢への入り口だった。


 まずは博士と俺が中の確認に入ることになり、ゴーグルと命綱を装着した。


「こんな軽装で大丈夫なんでしょうか?」


「あたしは何度か入ってるけど平気だったよ。冥界は生者には干渉しないから」


 博士は事もなげに言って、岩の隙間をひょいひょいと下りていった。


 博士に続いて湿気を含んだ冷気の中を手探りで進んでいく。広い空間に出たことが音の反響でわかった。遥か下方で遠い潮騒に似たざわめきを立てながら何かが波打っているのがぼんやりとわかる。


「あれが死者の行き着く先。魂の海だよ」


 博士の声は完全な闇の中から聞こえる。光は一切ないはずなのに、海の波の輪郭が見える。手が、頭が、尾が、波間に見え隠れしつつ漂っている。


 顔見知りの兵士が何人かこちらに顔を向けていた。姫がお好きだったパン屋の老主人も。


 あと半年早ければ姫の姿もあの中にあったのだろうか。


「上を見てごらん。天井にあるのが命の流れを作る心臓だ」


 言われるがままに見上げると、網状の笠を広げた巨大な茸が逆さまに生えていた。


 懐かしい匂いが鼻をかすめた。十五年の間に覚えてしまった、温かい春の庭のような姫様の匂いだ。





 冥界の調査は秘密裏に、しかし着実に進められた。空洞には足場が組まれて明かりが灯され、天井の茸の根元を隠していた岩が慎重に取り除かれた。果てしない坑道か化石の発掘現場のようだったが、掘り返されているものが命そのものであるという点が異なっていた。


 俺は冥界と王宮を往復し、進捗を王に報告した。研究が順調でも王の表情は晴れなかった。


 城は日に日に慌ただしくなっていた。国内の暴動が大きくなっているらしい。泥沼の戦争に打開策を打ち出せない王に不満が募っているのだ。


 敵国を潰せと市民は叫ぶ。物資も労働力も命さえも、干からびるまで戦争のために捧げてきた。埋め合わせるには失ったものを敵国から奪うしかないと信じている。血縁や友が隣国にいたことも忘れてしまった。争いが長過ぎたのだ。





 百日紅が咲き始めた夏の初め、王がお忍びで冥界の視察にいらした。


 遠い地底の海には俺の知らない顔が幾人も浮かんだ。王に縁のある者たちが引き寄せられているのだ。昨年の秋頃に死んだであろうぼやけた顔や、ごく最近の死者と思われるまだ生きているような顔を、王は手摺に肘をかけて見下ろした。


 探しておられるのだ。姫を。


「心臓はこっちですよ。どこまで特定できたか御覧に入れましょう」


 博士の無粋な声が、王を感傷の海から引きずり上げた。


 博士の指す先は茸の石突きに当たる箇所で、ちょっとした塔くらいの太さのある滑らかな軸が岩盤に突き刺さっている。岩の一部は削り取られ、木の根のような菌糸が露わになってた。


「手前の太いのが西の大陸に、奥のがこの辺一帯につながる根ですよ。天井をもっと掘れば生物種ごとに枝分かれしてます。地区を細かく特定して人間の女につながるひげ根を切断すれば、敵国には子が生まれなくなるでしょう」


 王はゆっくりと頷いた。蠟燭の炎が目鼻の深い陰影を揺らめかせる。


「我が国の霊についてはどうなっている?」


「大仕事になりそうですね。各地から吸い上げられた霊は一旦あの海に留まって溶かされた後に蒸発し、その蒸気を茸の笠の部分が吸着して軸から地中の菌糸に送ります。つまり海の中であらゆる霊魂が混ざってしまうわけです。なので霊が海に流れ込む手前のところから我が国の死者の魂を生きた人間の胎内に注ぎ込む直通経路を作ってやれば人格と記憶を保ったまま転生できる可能性はあるわけですが、まず魂の海に潜って菌糸を選別するところからして大変な作業になります」


 やってくれ、予算はつけると王は告げた。


 敵国民の命の種を枯らし、経験を積んだ志高い自国の兵士たちを新たな肉体で蘇らせることが、終わりの見えない戦争の切り札になると王はお考えなのだ。独断で進めても良いだけの意味があると。


 命の秩序を捻じ曲げるべきではないなどと進言することは俺にはできなかった。死を目前にして消えたくないと叫ぶ悲しみを、愛する死者と再び手を取り合いたいと願う痛みを、誰が否定できるだろうか。


(つづく)

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