世界茸(前編)

 命は永遠ではない。


 どんな人間もやがて年老い、病を得て死んでゆく。


 誰もが死すべき運命を知っているというのに、人は同胞と争い、余分な苦しみを自らに課す。


 循環する悪夢の流れに新たな筋道を付け、輪廻から憎しみを消し去れるのなら、この身を捧げ尽くすことなど厭わないというのに。





 朧月が輪郭をなぞるのは老いた手。花の咲く蔓の彫刻が施された椅子の背を撫でる。


 几帳面に並べられた筆記具も、整えられたベッドも、本棚に飾られた指人形の一つまで、一昨年の夏の日のまま塵一つなく保たれ、戻らない主を待っている。この部屋の管理を仰せつかっている俺自身も。


「死者が冥界に留まるのは季節が一巡りする間だけ」


 張りを失ってしまった国王陛下の声は薄青色のカーテンに吸われて更に弱く、亡霊の囁きにも似ていた。


「娘はもういないだろう。わかっている。わかっているが……」


 唇を震わせる今の彼は威厳ある統治者ではなく、家族を失った心細さに怯える一人の父親でしかなかった。


「承知しております。姫様の侍従長として見届けてまいります」


 頼んだぞと王は俺の肩を叩く。重力に負けた腕の質量がかかっている。





「ねぇ、侍従ってどうやってなるの?」


 一月前に発見された冥界の入口へと向かう飛行船の中、ゴーグルを磨きながら博士が訊いた。博士と顔を合わせるのは王から冥界の調査を任じられたとき以来二度目だが、旧知の仲のように話しかけてくる。ざっくばらんな割に何を考えているか読めないところのある人だ。


「人それぞれですね。私は元々は田舎の貴族の出なのですが、戦禍で帰るところがなくなったもので、知り合いのご厚意で王宮に」


「あー、よくあるね、そういうの。一族の生き残りが復讐と愛国心に燃えちゃったりとか」


 生き残りという言葉に見えない古傷が疼く。二十年前に隣国との戦争が始まって以来、多くの人が死んだ。多くの人が大切な人を失った。この痛みは国中にありふれている。


「復讐がしたいわけではありません。今は」


 敵国の奴らが悪魔ではないと知ってしまったら憎しみは萎えてしまった。姫の視察に同行した先の村で見た、制圧された敵国民の嘆き。そこでの悪魔は俺たちのほうだった。


 ある時は奪う側に、ある時は奪われる側に回りながら、同じ悲劇を繰り返す。奪われた死者は記憶を白紙に戻されて再び戦場に生まれ落ちる。全て忘却してまた同じ過ちを繰り返す。


 この虚しい輪廻の答えが、冥界の中枢に待っているのだろうか。


「ま、あたしは割と不純な動機で冥界研究の世界に入ったんだけどね」


 仕切り直すように博士は明るい声を出した。


「王様のご希望にはちゃんと応えるから安心して。不死の夢、叶えて差し上げましょう」





 少し離れた平地で飛行船を降り、荷物を背負って山道を行く。人里離れた晩秋の樹海の地面は木の根で覆われて歩きづらく、慣れない編み上げ靴が痛い。


 息が切れてきた頃、助手たちと話しながら先頭を歩いていた博士が振り返った。


「死んだ生き物は冥界へ下りて、約一年後に転生する。これはみんな知ってるよね。じゃあ、世界中でばらばらに死んで、弔いもされたりされなかったりするものが、どうやって冥界まで行き着くと思う?」


 講義のような口調の問いかけに護衛兼荷物持ちの兵士たちは顔を見合わせ、助手たちは愉快そうに目を輝かせた。


 博士は屈み込んで堆積した枯葉を掘り、手にひと山の土をすくい取った。


「答えはこの中にある」


 博士はポケットからガラスの霧吹きを取り出し、中の液体を土に吹きかけた。土の色味が青っぽく変化した気がした。よくよく見ると蜘蛛の巣のような細い糸が土の粒子を縫うように絡まって、白藍色の燐光を放っていた。


「何ですか、これは」


 若い兵士が不思議そうに尋ねると、博士はこらえ切れない様子で口元をほころばせた。


「これこそが冥界そのもの、原初の生命――身近で例えるなら菌だ。こいつがあらゆる土地に菌糸を伸ばしていて、死体から吸い上げた霊的な成分を中枢に送る。そこで霊は溶かされ浄化されて、再び菌糸を通じて植物の種や動物の子宮に宿る。これが世界の秘密。学界でもなかなか信じてもらえないけどね」


 遍在する冥界のひとひらが、博士の手の中で淡く輝いている。博士が指を動かすだけで冥界の糸は脆く千切れるだろう。


「その秩序を書き換えようとしているのですね、我々は」


 博士は目を細めて俺を見上げ、「ほんの少しね」と答えた。


(つづく)

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