誓約と欲望のライブラ
エイロウは村を去らなかった。
「おはよう、リュカ。朝食にわたしはいかが?」
そんなことを言って勝手にベッドの中に潜り込んでくる。
朝、自分の理性はもっとも弱くなっているという自覚がある。リュカはそのことを長い年月を経て知っていた。食欲に限らずあらゆる欲望が強くなる恐ろしい時間だ。
「いい。決まってるんだ、食べるものは」
うっかり嚙みちぎりそうになるような、無防備に曝け出された白い首筋。ただの人間でも一度エイロウの味を知ってしまえばどうなるかわかったものじゃない。リュカは想像してしまう。いままで食べたどんな人間よりもおいしいとなれば、彼女はいったいどんな味がするのだろうかと。
空腹で重い身体を引きずって森に入り、苛立つ感情のままに獣を狩った。生のままの肉をかじりながらデザートの木の実をもぎる。酸味が強いらしい、とても小さなぶつぶつとした感じのやつだ。
しかしどれだけ食べてもリュカの食欲が満ちることはない。土を口にしているようなもので、おいしいなどと感じることもない。
人の肉だけなのだ。リュカを満たすことができるのは。
「とてもまずそうですね」
エイロウはそんなリュカに付き纏う。
「うらやましいよ、エイロウが」
「そうです?」
エイロウはわざとらしくローブを着崩して柔肌を見せつけてくる。
目を逸らして答える。
「そうだよ。呼吸をしていれば食事の必要がないらしいじゃないか」
「そうですね。エーテルがあればいいので。異国の地で仙人と呼ばれる境地に至ったひとが同じような感じらしいです」
「わたしもそうなれればいいんだけどな」
しかしそれはアリカとの誓いを守ってからの話になるだろう。
「リュカはいつアリカさまとお会いしたのです?」
銀色の筋が風の中に流線形を描いた。
話すようなことじゃない。けど、エイロウもアリカの関係者で、自分と同じような罪を背負っている。色々理屈はつけられるが、要するにリュカは自分のことをエイロウに聞いて欲しい気分になっていた。汗の香りが揮発した酒のような効能を持っているのかな、とか。
「三十年前。同族である母を食べてしまったのが原因だった」
リュカはぽつぽつと当時のことを話した。
「それがきっかけで食欲が止まらなくなった。自分の血族だけに飽き足らず、掟で決められていた月にひとりという制限を破って人喰いをするようになり、いつしか暴食のリュカとして名指しで追われるような化け物になっていたらしい」
「どこかで聞いたことがあるような気もしますね」
「そう?」
リュカの見た目は少女のものだが、実年齢はと言うと、割といってる。エイロウはどうなんだろう? 同年代くらいに見えるけど、不老不滅だもんな。いくつかなんてぜんぜんわからない。
「エイロウって実はけっこう長生きしてる?」
「人生経験は豊富ですよ? 料理人は何代目かもう数えてもいませんし。世界中のすべてのひとに食べられなければ終わらない遍歴をしていますから」
リュカは思わず口を塞いだ。
すでに手遅れだった。
「あら、そんなに興奮させちゃいました?」
ぽたぽたと液体が垂れている。すべて口から零れたものだ。話すエイロウの横顔を見ているうちに、リュカは口を開いて牙さえも剥き出しにしていた。てのひらに嫌なぬめりが触れる。
「きっとアリカさまはとっても意地悪な魔法をあなたにかけたのでしょうね。その心と身体の成長を止め、百年間人喰いをするな。そうすれば魂が救われる、できなければ最初からやり直し。もしかすると禁忌破りでもっとひどいことになるとか?」
「ああ……だいたい合ってる。しかも普通の食事では満足できないっておまけつきでね。昔、うっかり自分の血を舐めたとき、また人喰いの化け物に戻ってしまったことがある。まあ、それも、天罰の雷みたいなのがおちてきて止めてもらったけど。あれはあんまり体験したくないな」
人生で一番痛かったかもしれない。それも持続性があった。
でも、自分が案外おいしいということも知ってしまって。
「よだれを垂らしてる女の子ってかわいいですよね」
エイロウがリュカの頬をつついた。
「うっさいな。なにが聖女だ。他人に禁忌を破らせようとするなんて、そんなの魔女だろ?」
ふふ、と眼前の女は笑った。
「そう呼ばれたこともありましたよ。性根は変わらないものですね」
なにかを諦めたような微笑。
ああ、とリュカは自分自身の胸倉を掴んだ。強く。
なんてこのひとはおいしそうなんだろう。
もし誓約を破るとするなら、きっと次はこのひとを口にしてしまうんだろうな。
リュカはどくどくと脈打つ心臓を押さえながらそう思った。
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