甘い誘惑カニバリズム

「あなたは食べませんでしたね」

 清らかな響きにはっとしてリュカは振り返る。そこには白いローブに身を包んだエイロウの姿があった。布に覆われているが、四肢が綺麗に揃っているのがはっきりわかった。時間が経てば大気中のエーテルを吸って再生するというのは本当のことだったらしい。不老不滅の、食べられるためだけの存在。

 そして彼女からはとても甘い香りがした。普通の人間には感じ取れないだろう、マンティコアの血族だからこそ知覚できる上質な獲物の匂いだ。

「約束した。アリカと。二度と人を食べないって」

「私もですよ。アリカさまと約束しました。二度と人の肉を口にしないと。その代わり、己のことを食べさせつづけることを誓ったのです」

 彼女はそう言ってローブの裾をめくりあげた。上品な顔に反して逞しい形の脚だった。その肌はうっすらと赤く染まっており、太腿まであらわになると彼女の香りも強くなっていった。

「なに、して……」

「なんだと思います?」

 エイロウは自身の腿を指でなぞっていく。

「このあたりには大腿四頭筋というものがあるそうですよ。山歩きをしていますから、かなり自信のある部位です」

 なにを言ってるのか理解したくない。

 指はやがて腹部をさした。

「油断するとすぐに膨らんでしまうものですが、ここも私は鍛えてるんです。きゅっとしてるでしょう?」

 リュカはかすかにこくりと頷いた。口を開くと唾液が零れてしまいそうだった。肌が空気に触れると、エイロウの香りがより強く鼻孔をくすぐった。

「でも、ここはあまり鍛えないようにしてるんです。やわらかくて大きい方がそれらしく味わえるって好評なので」

 布の中におさまったままの乳房が持ち上げられる。

 喉が鳴った。どうすることもできない。

「ほら、おいしそうに見えません?」

 そんな声と共に、リュカの身体にエイロウが触れた。密着して、どんな形をしているのか、どのように肉がついているのか、どこが硬くてどこが柔らかいのか、そのすべてを刷り込もうとしてくる。

「だめっ。だめだよ!」

 リュカはエイロウを押しのけようとする。その手が胸に触れてしまった。

 その瞬間、リュカのなかにはっきりと理性が戻った。

 母を手にかけたそのときのことを思い出したからだ。

 それはそれとしてさっと手を離す。エイロウに触れているだけで欲望に負けそうになる。アリカはきっと、禁忌破りを意識させないようにわざとこんな身体を与えたに違いない。そうでなければ、普通の人間である村人たちまでエイロウのことを食べようなんて思うはずがないから。

「きみのことは食べられない」

 そう言ってきびすを返したリュカの腕にエイロウが抱き着いた。

「じゃあ、どこまでならいいんですか? たとえば……」

 エイロウが耳元で水音を立てた。どきっとする。目線が奪われた。エイロウは自分自身の指にわざとらしく唾液をまぶして舐めていた。

「肌の表面を舐めるだけならだいじょうぶ、だったりとか」

「そんなこと言ってだめだったらどうしてくれんの?」

 思わず言葉遣いが乱れてしまう。

「責任取って毎日食べさせてあげるとか? なんちゃって」

 なにがなんちゃって、だ。ふざけているのか、この女。

 だけどその怒りがリュカを冷静にさせてくれた。

 エイロウの聖女っぽくない態度は、俗世で大賢人とか呼ばれているアリカとすこし似てる気がした。

「簡単に責任がどうとか言うの、よくないよ。わたしの誓いは百年守らなきゃいけないんだ」

「ふうん? じゃ、聞かせて。ええと、あなた、名前は?」

「リュカ。リュカ・マンティコア」

「マンティコア——もしかして、あなたは本物の人喰いですか?」

「そう。人喰いの化け物だ」

「そうは見えないですけど」

人肉食カニバリズムをやめたからね。再開したら破滅を招く。だからどれだけきみがおいしそうでも、わたしは」

「おいしそうなのは認めてくれるんですね。えへ」

「価値観どうなってんだおまえ?」

 銀髪の聖女はくるくると回りながら笑顔になる。

 振りまかれる肉と汗の香りが甘かった。

 くらくらと視界も一緒に回転する。

 狂おしいほどおいしそうな少女を前に胸が躍って、リュカはどうしてこんなときに彼女と出会ったのだろうと天を呪う。

 それは百年の飢餓と天秤にかけて釣り合うほどの出来事だった。

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