己喰らいのマンティコア
サクラクロニクル
喰らわれの聖女エイロウ
捌きたての人肉が放つ鮮烈な香りに、少女の理性は溶ける寸前だった。血と肉と骨とが奏でる背徳の交響曲は、リュカ・マンティコア以外のあらゆる人間の判断力をも簡単に溶解させた。人々の囲うテーブル上には血液のスープや腿肉の骨付き焼きを始め、頭部以外の人間の部位が余すことなく調理されて人々に振る舞われている。
リュカは粗末な布の袖から手を伸ばし、蒼い髪を撫でてから空を仰いだ。真っ赤な月が浮かんでいる。今宵もいつもと同じ血色の月が人の笑みのような形で地上を照らす。
まともな判断力が残されているならば、こんな光景は悪夢としか言いようがない。事情を知らぬものが見れば、異教徒の蛮行として村ごと焼き払うという判断をしても咎めることはできないだろう。
同族を喰らう。これはどうしようもない禁忌だ。
リュカの口内にはただでさえ唾液が絶えない。いつも飢えていた。どれだけ豪奢な食事をしても決して癒えない飢餓感が続いている。
悪夢でなければ、これはきっと賢人の与えた試練なのであろうとリュカは己の胸を掴んだ。かつて母の乳房を手にし、始まりの衝動を生んだときのことを思い起こさせる。心臓が痛い。眩暈がする。おなかが空いた。食べたい。そこにあるものをどうしても食べたい。
くらくらとしながら、リュカは
白い石造りの祭壇の上には、今日の料理の材料となった聖女の頭部が置かれている。銀色の長い髪の毛を持つ少女の頭。月のように赤い瞳がリュカのことを見つめていた。くりぬいて嚙み潰すことができたら、どんなに甘い心地がするだろう。そんな妄想を抱かせる魔性を彼女からは感じた。
聖女の唇が動く。
音もなく放たれる言葉をリュカは読んだ。
あなたは食べないのですか?
「食べたいよ」
リュカは本心を答えた。
「では、お食べください」
そう言ったのは国教の司祭で、料理人と呼ばれている。それが役職であり、名前だった。そのローブは黒い。返り血を隠すための細工だとされている。
「それが聖女エイロウさまの願いであり、貴き償いへの奉仕となりますので」
「禁忌なんだ」
笑って答えた。うまく取り繕えたか自信がない。空腹が音となって響きそうだった。食べたい。食べたい。食べたい。繰り返し食べたいという欲求が頭のなかを巡っていた。
エイロウはどうしようもなくおいしそうだった。
「いいえ。赦されます」と料理人。「大賢人アリカさまの名において、この人喰いは決して罪ではないと保障いたしましょう」
知った名を聞いて、リュカはなんとか自分自身を取り戻した。
アリカ。そうだ。アリカ・メティス・ティンシャン。かつてリュカのことを救ってくれた賢人がそんな名をしていた。
「だからこそ、わたしもエイロウのことが食べられないんだよ。それがあのひとと交わした約束だから」
リュカはそう言って、他人とは違い四足獣の肉を噛み、果実の汁を舐めた。砂と泥水の味がする。比べたことがあるからわかる。どっちも人間の食用になるような味ではない。
「聖女さまはうまいなあ」
「また来てくれないかな」
「俺らの歳じゃ次はねえさ」
「万病に効き、寿命が延びるんだ。おまえたちもしっかりと味わっておき」
「はあい、お母さま」
人々の団欒を横目に、リュカは黙ってその場を離れた。
エイロウから漂う香りはいつまでもリュカの心を捉えて離さない。
村はずれの自宅に戻ってからも、あの聖女の顔と行動が頭のなかによぎった。
あなたは食べないのですか?
誘惑の言葉を振り払うため、リュカは銀のナイフを自身の腕へ突き刺す。そこから垂れる血液を舐めることさえも禁じられている。もし再び罪を犯せば、リュカは人喰いの化け物となった後に裁きの
傷口は数分もせずうちに閉じ、じくじくと疼いた。
夜に見る夢のなか、花畑のなかでエイロウがくるくると踊った。
宙を舞い流れる白銀色の筋に、赤い飛沫が甘く弾ける。
「あなたは食べないのですか?」
その問いに答える前にリュカは目を覚ます。
まだ外は暗かった。空に浮かぶ月に嘲笑されて、彼女はふらふらと宴の終わった広場を彷徨った。
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