78 何もない③

 部屋に引きこもって生きがいを失ってしまった俺に、宮崎さんはいつも優しい声で暖かく励ましてくれた。彼女はお母さんとしてずっと頑張ってきたのに……、俺はそんな宮崎さんをずっと無視していた。他人だと思っていたから、あの人たちは俺の家族じゃないってずっとそう思っていたから、二人の存在を否定していた。


 ずっと不安で、指先が震えている。

 そんな日々が続いていた。


「あかねくんが私たちを家族として認めてないのは分かっている」

「いいえ……」

「そして、なぜそう考えているのかもちゃんと分かっているから……。私たちはあかねくんのことを憎んだりしない。まだ中学生だからね。いろいろ……、大変だったよね? あかねくん…………」

「…………」


 そう言いながら俺を抱きしめる宮崎さん、俺はずっと我慢していた涙を流した。

 結局、俺の居場所はここだ。

 そんなことすでに知っていたのに、俺は……宮崎さんの温もりを感じてそれを認めることにした。俺たちが家族だったことを……。ここにいるのが、俺の家族だったことを……。いや、ここに来たあの日から、ずっと家族だった。宮崎さんとみおは俺の家族だった……。


 俺は……、ずっと家族が欲しかった。

 今、そばにいる宮崎さんが俺のお母さんなら、俺もそれでいい。もういい。


「宮崎さん……」

「うん。あかねくん」

「あの……、聞きたいことがあります」

「うん。言ってみて」

「お父さんのことですけど、もうここにいないから……。お父さんにはもう聞けないから……」

「うん」

「どうして、お母さんは俺を捨てたんですか……?」


 静かな居間で、俺は宮崎さんに聞いた。


 あの日から、なぜそうなったのか、知りたかった……。

 お母さんのことが憎くて頭の中から消したいほど嫌いだけど……、それでもその理由が知りたくて俺は聞くしかなかった。宮崎さんならそれを知っているかもしれないから、お父さんがどうしてそんな選択をしたのか、俺も知りたかった。


 俺には何も言ってくれなかったから。


「これをあかねくんに話したら傷つくかもしれない。それでもいいの……?」

「はい……」

「九条さんと出会ったのは私の仕事場だったよ。あの人はいつも同じ時間に、私が働いている時間に、お弁当を買う人で……。すごく優しい人だったのを覚えている。変な意味じゃなくて、本当にいい人。そんなイメージだった……」

「はい」

「毎日、挨拶をして同じお弁当を買う人。でも、たまにはつらそうな顔をして、お弁当を買う日もあったよ。そんな日が続いて、ふとなぜそんな顔をしているのかな……気になって、あの人に聞いてみた」

「はい」

「九条さんは……、どうすればいいのか迷っていたよ。子供がいるのに、あかねのお母さんが他の男と浮気をしていたから……」

「えっ? お母さんが?」

「うん。九条さんがそれで悩んでいた時、あかねくんはまだ小学生だったから、言えなかったかもしれない。あかねくんが中学生になっても言いづらかったと思う。そして何年間、あの人はずっと浮気をしてて……。それをどうすればいいのか、九条さんは私に相談したよ」

「…………」


 どうして?


 お母さんは優しい人だったはず、俺が知っているお母さんは優しい人だった。

 なのに、俺の知らないところで知らない男とあんなことをやっていたのか? どうして? 俺が嫌だったのか、あるいはお父さんが嫌だったのかは分からない。なぜそんなことをしたのか、その理由を本当に分からなかった。


 浮気だなんて……、お母さん……。


「浮気、その理由は……二人に飽きたからって」

「はい……?」

「あの人には多分、愛情が足りなかったと思う。九条さんはいつも帰るのが遅かったからね。一人の時間が長かったかもしれない。そして帰る時も店に寄ってお弁当を買うから、店長も九条さんを知ってるほど、彼は真面目で優しくて強い人だったよ。毎日毎日……仕事ばっかりだったから」

「…………愛情」

「うん。あの人はずっと……、愛情を求めていたよ。九条さんの話を聞いて、それしか思い出せなかった」

「そうですか……」

「九条さんは苦しんでいた。浮気をした証拠を見つけても、まだ好きだから……そんなこと言いたくないって。あかねくんもお母さんのことが好きだから、そんなことできないって。何年間……、ずっと我慢してたよ……」

「そ、そんな……」


 なんで、俺にそんなことを言わなかったんだろう。

 それに気づいたらなんとかするべきだった。どうして、中学生になるまで俺に何も言ってくれなかったんだ……? 一言も! 俺に言ってくれなかった。俺は……ずっとお父さんのことを憎んでいたのに、お父さんは一人で全部抱えていたのかよ。お母さんのことを……。


 なんで、一人でそんなことを……。俺に言ってくれたら……。

 きっと状況は変わったはずだ。


 でも、もう遅い。


「泣かないで……、あかねくん」

「…………俺はずっとお父さんのことを憎んでいました。お母さんのことが好きだったから、勝手にそんな選択をしてお母さんと別れたから、ずっと嫌いだったのに……なんで! 俺にそれを……言ってくれなかったのか、分かりません」

「これは……九条さんが残した手紙。九条さんはね。強い人だったよ。一人で我慢して、それに耐えて……、家族のためにずっと頑張ってきた。私も九条さんのことがすごく好きだったから、そしてあかねくんも好きだから。家族として、お母さんに頼ってほしい」

「…………」


 手紙の中にはある写真が入っていた。

 お父さんと撮った写真、涙が止まらなかった。


 俺に笑ってくれたあの時のお父さんはもういない。この世にいない。


「お母さん…………」


 俺は泣いていた。

 宮崎さんの前で……、たくさん泣いていた。


 ずっと我慢していたから、俺は……一人になりたくなかった。

 他の人たちみたいに普通の日常を過ごしたかった。


「うん……。ここにいるよ」

「…………」


 人の前でそんな風に泣いたのは、初めだった。

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