見つけた愛と残された報い(2)

 それからというもの、目に写る全てが色のない白黒に見えた。彼女とはもう連絡も取ることができない。連絡が来るとしたら、それは俺達が別れるように仕組んだ友人からだ。彼女と別れた今、会う必要もなくなり、友人と繋がる連絡網は全て絶った。その一ヵ月後のこと。どこにも出かけず、職場と家を行き来していた俺の目の前に現れたのは……泣き崩れた顔で手首から血を流し、手に小型のナイフを持った友人。時刻は夜の九時を過ぎた頃で、辺りを歩く人はほとんど見当たらない。友人がいたのは家があるマンションのエントランス前。後ずさりをしながら、ナイフを持って近づいてくる友人をなだめる。でも、俺の声など友人には届いていなかった。「どうして?どうしてなの……あんなに私のこと好きって言ってくれたのに。ようやく、あんな女と別れて付き合ってくれるって信じてたのに」と泣きながら一歩一歩と近づいてくる。

 「ごめん」

 その一言以外、俺には何も言えなかった。友人は歩みを止め、俯く。落ち着いたか、そう思った瞬間。友人はナイフを強く握りしめ、俺に向かって走り出した。慌てて来た道を引き返し、逃げ込める場所を探した。だが、周辺にあるマンションのほとんどはオートロック式になっていて、中に入っていくことはできない。一キロほど走っただろうか……ようやくオートロックではない三階建てのマンションを見つけた。背後から聞こえてくる友人の叫び声。どの部屋でも誰でもよかった、とりあえず中に入れてもらえれば。真っ先に目に入った部屋の玄関のチャイムを鳴らす。何度鳴らしても出てくる気配はない。もう諦めるしかないのか、そう思っているとインターホン越しに「どなたですか?」と女性の声が聞こえてくる。俺は扉を叩き、入れてほしいと懇願した。インターホンから声が聞こえなくなると、鍵の開く音と共に玄関の扉が開く。慌てて中に入り、玄関で座り込んでしまった。女性は「よかったらどうぞ」と水の入ったコップを差し出す。女性にお礼を言い、水を一気に飲み干した。この時に飲んだ水が人生で一番美味しく感じた。女性は俺を部屋の中まで案内してくれる。ソファーに腰かけると「紅茶は好きですか?」と女性に聞かれ、静かに頷く。こんな怪しげな男に紅茶まで出すなんて、お人よしが過ぎると思った。そのうえ「朝までここに居させてほしい」と尋ねると、「わかりました」と二つ返事で答えてくれた。女性は佐野美乃里といい、俺よりも三歳年下の二十四歳。小柄で可愛らしい見た目とは反対に、ハキハキとした話し方をする明るい女性だった。思っているより話が盛り上がり、いつの間にか日が昇っていた。俺は深く頭を下げ、佐野さんの家を出る。昨夜、大変な目に遭ったというのに、なぜか外の景色が色鮮やかに見えた。このまま家に戻っても、もしかしたら友人が待ち伏せしているかもしれない。とりあえず、昨夜のことを相談しに警察署へ向かった。だが、何度話しても警察官には「また、何かありましたら110番に電話をしてください」と言われるだけで、全くあてにならない。その日は休みだったが、職場である美容院に向かい、同僚に昨夜のことを事細かに話した。事情を知っている同僚は「分かった。あの子の顔はわかるから、店には絶対に入れないようにするよ」と受け入れてくれる。店は人通りの多い場所にあり、偶然にも近くに交番もあるので友人が身の危険を冒してまで来ることはないと思う。そう信じるしかない。俺はデパ地下で可愛らしいケーキを二つ買うと、佐野さんの家の前で待っていた。夜の六時を過ぎると、佐野さんは家に帰ってきた。俺はお礼の言葉と共に手に持っていたケーキを渡し、駆け足でその場を去る。これ以上は迷惑をかけられないと思ったからだ。

 それからは持っているお金で適当に服を買い、職場の近くにあるネカフェでの生活が始まった。思っているよりも苦痛な生活ではなく、心配しているのは友人が店にまで来ないかということだけ。そんな生活が一ヵ月ほど続いた頃だった。夜遅くにお腹が空き、コンビニで買い物をしていた。ネカフェに戻る道中、二人組の男に絡まれている女性の姿が見え、急いで駆け寄る。絡まれていたのは佐野さんだった。「何をしているんだ」と声をかけ、警察に連絡する素振りを見せた。すると、二人組の男は慌てて逃げていく。佐野さんは「怖かった……」と呟き、その場に座り込む。「大丈夫ですか?」と手を差し出しすと、佐野さんは俺の手を取り立ち上がった。酔っぱらっているのか、何を言っても頬を膨らまし反論する佐野さん。とりあえずコンビニで買っていた水を渡すと、少し落ち着いたようだった。この先へ行く道を歩いていたとすれば、大体、どこに向かっていたのかは把握できる。多分、俺が寝泊まりしているネカフェだろう。俺は佐野さんの手を取り、そのままネカフェまで案内した。ネカフェに着くと、佐野さんはお礼を言い、そそくさと中に入っていく。俺の目的地も同じなので佐野さんについていくように中へ入った。佐野さんは振り返り、「送ってくれたんじゃなかったんですか?」と丸くした目で俺を見る。寝泊まりでここを使っていると説明すると、佐野さんは何故か俯いてしまった。自分では恥ずかしいことだとは思っていなかったので、どういう顔をしたらいいのか分からず、ただ笑うことしかできなかった。すると、佐野さんは顔を上げ、俺の目を見つめる。

 「あの……それなら私の家で暮らしませんか?」

 思いもよらぬ言葉に口を開いて驚く。なんと返せばいいのか考えていると、佐野さんは早口で言葉を並べる。会って三回目の男に暮らそうなんて、どうしようもないくらいのお人よしで……。そのうえ、自分の心配ではなく、俺の心配をするなんて。笑うつもりもなかったのに、なぜか心の底から笑いが込み上げてくる。この誘いは俺にとって有難い話だ。このまま、ずっとネカフェで寝泊まりするのはきついところがある。

 「その提案に乗らせてもらえるかな?」

 そう聞くと、佐野さんはどこか嬉しそうに「いいんですか?」と聞き返す。どこまでも可愛らしい人だなと思った。「ダメかな?」と首をかしげると、「大丈夫です。狭い家でよければ……」と照れたように佐野さんは言った。その日はネカフェに泊まり、翌日から俺は佐野さんの家で暮らし始めた。

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