第3話
支度を済ませて部屋を出た。今日は、午後の日差しが気持ちがいい。雲の形が日に日にしっかりとしてくる。初夏だ。施錠しながら息を深く吸った。
病院まで徒歩二十分だから、ゆっくり歩いても間に合う。
腕時計をちらと見て、今日はポストのある道にしようと思った。きっとミャーコがいるはずだ。肩にかけたトートバッグの持ち手をすりすりと触る。少しけばけばしていた。
アパートに続いた道を、下って左に曲がる。水曜日だから、色とりどりのランドセルを背負った賑やかな小学生たちが、もう帰ってきている。
曲がって、下ってしばらく行くと、大きなふた口ポストの上にやっぱりミャーコが乗っていた。ミケの大きな猫だ。背中を覆う大きな茶色の毛のところが、長野県みたいな形をしてる。県境をなぞるように指でつう、となでる。ミャーコは喉を鳴らす。
一周して、じゃあね。と手を振り、あくびで返すミャーコと別れる。
「三船槙一さん」呼ばれたから、文庫本を閉じる。
今日のメンタルクリニックは、不思議と空いている。返事をして、診察室に入る。
「失礼します」「はあい」戸羽先生はいつも陽気だ。
「や、三船さん。最近どう?」眼鏡で、ちょっとまるっこい体の戸羽先生がボールペンを回している。坊主に刈った頭が涼しそうだ。
「あ、はい。まだちょっと、圧倒されます。記憶によっては」
言いながら、無意識のうちに手をにぎにぎと動かしてしまう。気づいたから、手のひらを軽くさすって止める。
「そっかあ。まあね調子が悪いときとか、やりたくないときはやらなくて大丈夫だからね。ちょっと強いの出てきちゃったら中断して息、吸ってね。」
「はい」言われて、つい息を吸った。戸羽先生がボールペンのおしりで頭を掻いている。
「この方法相性あるからね。そうだね〜薬効いてるかもね、思い出しは?」
「あ、前より、なくなったかなと思います」
「わ〜いいね。じゃあいい感じだね。また今回も出しとくからね、漢方。また二種類飲んでね」
「ありがとうございます」「はあい」
先生がパソコンへカルテを入力しているあいだ、キーボードの音を聞いていた。さっぱりとした診察室に、ひとつだけ掛かっている猫の絵を眺める。これも三毛猫だった。
その後、いつものように眠れているか、食欲はあるか、などの話を先生とした。眠れています。食欲はあります。コーンフレークにはまっています。とか。先生はチョコレート味のコーンフレークが好みだそうだ。
「いいね、順調。よく栄養とってね夏だから水もね」
「はい。ありがとうございます」
診察が終わり、待合室へ戻る。すぐ呼ばれたので、会計をする。院内処方でもらった薬をトートバッグにしまった。膨らんだバッグが、かさかさと音を立てる。少し時間が余ってしまった。算数ドリルをコンビニのコピー機からいくつか買ったら、ふじた書店へ行く前に、ミャーコの顔をもう一度見に行こうかな、と思う。
「おはよ〜うございます」
「あ、おはようございます」
バックヤードのロッカーの前で、エプロンをつけているとふじ田店長が入ってきた。本当は藤田だけど、別の従業員にも藤田さんがいる。だので好きな飲食店の名前をもじって、ネームプレートはふじ田としてあるそうだ。
「お、三船。きょう予約の文庫新刊入ってるよ」ふじ田店長が親指を立て、背後を指す。売り場のほうだ。
「わ、ありがとうございます。休憩で買います」
かぶるタイプのエプロンの、うしろのボタンを止めながら返す。時計を見る。あと十五分で午後五時、僕のシフトの始業時間だ。
「新刊ちょっと売れてるよ。嬉しいね」デスクについた店長が、丸めがねの奥で笑った。
「いいですね」「やっぱ売れると嬉しいよ。本が」「ですねえ」「は~十万円ぐらい買いてえな本」「あはは」「あ、そうだ三船はむ太げんき?」「はむ太元気です」「ヨカッタ〜」店長が相好を崩す。
はむ太は、ふじ田店長から受け取ったのだ。娘さんと買いに行った二匹のメスのハムスターが、なぜだか片方オスだったそうで家族が増えてしまったのだ。
「や~もう同じケージで二匹飼っちゃいかんね」「そんなことあるんですね」「や最近わかったんだけどね」「なんですか」「アレだよ、タマがさ」「、たま、ああ、」「そ。なんかね〜そのチョコのがねえやたら小さかったらしくてわかんなかったんだって」「そんなことあるんですね?」「だよな~」手のひらを頭の上で組み、ふじ田店長が椅子にぐいともたれる。
「まあねえでも可愛がってやってな。ありがとな〜ねずみだから、あんまり長生きはしないけど」
「そうなんですか?」知らなかった。
「そう。二年ぐらいかな寿命。だからね〜死んじゃあ新しいの飼うのよお娘がね。やっぱりかわいいからずっと飼いたいんだあって」
「そうなんですね」
「そう。三船もはむ太ループにはまるかもな」
「そうですね。はむ太かわいいです」言うと、店長が笑った。腕時計を見る。五分前だった。
「店長じゃあそろそろ」
「はいよ。きょうもよろしくお願いします」ふじ田店長が、ひらいた膝に手をついて軽く頭を下げる。「あ、こちらこそ」会釈をする。顔を上げて、もどしたとき、僕はやわらかく微笑んでいた。
バックヤードのカーテンを開けて、レジの方を見た。お客さんが並んでいる。瞬間、応援ブザーが鳴る。僕に気づいた藤田さんが慌てて手を振るので、急いでそこへ向かう。
三船槙一/43歳 フカ @ivyivory
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