約束の地まで

黒石廉

約束の地まで

 コーヒーを飲みながらスライドのデータを入れたUSBメモリを確認する。

 スマートフォンでメールをチェックする。念のためにと自分で自分に送った添付ファイルもしっかりとある。

 出掛けにトイレに座ってみたが、やはり腹は動かない。もう三日になる。

 繊維質を多めに取ればと思って昨日はお好み焼きを食べたが、すぐには効かないようだ。それともソバを抜いてキャベツを増してもらったら今頃爽快だったか。

 俺は整腸剤を水で流し込むと家を出た。今日こそしっかりと出ますように。


 ◆◆◆


 「今こそ! 今こそ我らが宿願を果たす刻ぞ!」

 干からびきった長老が叫ぶ。ずっと囚われ続け乾ききった長老はもう自力で動くことすらままならない。それでも長老は壁にへばりついて皆に檄を飛ばす。

 「この地で干からびていくなど、我らは断じて認められぬ!」

 もうひからびてるじゃん。私は気取られぬようにツッコミを入れてみた。

 いつもいつもあのようなことを言っているが、ずっと変わらないのだ。ずっと変わることができないのだ。今日もまた変わらず、私たちはここで囚われの身となったまま干からび朽ち果てるのだ。私は少し自由が効かなくなってきた自分を感じながら、自分の未来の姿を幻視する。昔は違ったのだという言葉は私には届かない。


 ◆◆◆


 教室に人はまばらだ。

 一限だからである。出席は取らないといったせいでもある。

 壁には私語厳禁という大きな貼り紙があるが、彼らはそれが目に入らない。スマートフォンをいじりながら、話に興じ続ける。だから、来ても点数が増えないこと、休んでも点数が減らないことを話し続けた。八回、つまり一セメスターの半分ほど同じことを繰り返したところで、ようやくここを朝の社交場として活用する奴らは消えてくれた。

 今では少数の真面目な者と物好きだけが残っているので話すのも楽だ。少なくとも話している最中に俺の話とは関係なく起こる笑い声で気を散らされることはない。そんなにすぐ笑えるのなら、俺の考えてきたネタでも笑えってんだ。

 そのようなことを考えながら、『汚穢と禁忌』について説明し、記号論や象徴論を用いた学説の流れを概観していく。学際的になりながら細分化するという袋小路に進んでいるかにみえる先端研究よりもこういった古典的なネタのほうが俺は好きだ。汚物の話を堂々とできるから好きというのも否定はしない。俺は下ネタが好きなのだ。

 電車の中で立っているのは一〇分でも苦痛だが、こうやって話をしているときは立ちっぱなしでも平気だ。

 ずっと立っていたせいなのか、それとも汚物について話し続けていたせいなのか、腹がぐるりと動いた。

 もしかしたらいけるのではないか。

 講義終了後、俺はトイレに向かう。

 しかし、座った瞬間にぐるりと動いていた腹が沈黙した。

 しばらく座っていたが、やはりどうにもならなかった。

 俺は少し痺れた足で立ち上がり、トイレを出る。


 次は別の大学に出講する。別の大学とはいえ、四限だから移動時間を考えても十分な余裕がある。

 俺は快速列車に乗ると、肩のこらない文庫本を取り出した。

 先程まで沈黙していた腹がまたぐるりと動く。

 少し不安になる。でも問題ない。ありがたいことにこの路線の快速列車はローカル線では今どき珍しいトイレ付きである。

 列車のトイレというのはあまり入りたくないが、いざとなったらなんとでもなる。

 そう思うと自然と腹は動かなくなった。これはこれで困ったものだ。

 腹がずっしりと痛む。面倒なのではやいところ解放されたい。


 昼食はファミレスで取った。

 サラダバーが目当てである。

 サラダバーとBLTサンドを腹にぶちこむ。

 さぁ、動け、俺の腹よ。

 食後、トイレに座ってみたが、やはり腹はうんともすんとも言ってくれなかった。


 午後は女子大で比較宗教学、退屈そうな顔でスマートフォンや髪をいじる女子大生たちに話をする。

 せめてモーセの話よりももっと楽しい話をしてあげたいものだが、講義の名前がこれなんだからしょうがない。

 こちらも午前同様に出席の件を伝えてあるのだが、校風の違いなのか、何と言っても出席はする。

 ただし、話は聞いてくれない。

 話に興じていて講義が終わったことにすら気が付かない学生の横を通り抜ける。

 職員用のトイレに座ってみるが、やはり何も反応がない。

 それなのに、講義棟から出て構内を歩いている最中に腹がものすごく大きく動いた。

 ここは女子大だ。

 教職員は男性も多いので、教務課や講義棟のような場所には男子トイレもある。

 しかし、そこを外れてしまうと途端に男子トイレが見つからなくなるのだ。

 今、俺が歩いているサークル棟のあたりでトイレを探すくらいなら、構外にでたほうが良いだろう。

 横をキックボードで走り抜けた学生に脳内で罵倒の言葉を浴びせる。漏れたらどうするんだよ。

 俺は脂汗を流しながら内またで進む。


 学生街の本屋に入る。

 これで安心だ。

 しかし、無情にも一つしかないトイレの個室は埋まっていた。

 俺はもじもじしながら待つ。

 待つ待つ待つ。

 聞こえてくるのはうめき声だけ。

 悠久のときにも感じられるほど待ったところでしびれを切らした俺はドアを連打する。


 「うるせぇ、出るもんも出なくなるだろ」

 「いつまでもトイレで気持ちわりぃうめき声あげてんじゃねーよ、変態がっ!」


 売り言葉に買い言葉的に顔も知らぬ相手を罵倒した俺は腹をさすりながらトイレを内またで出ていく。

 本のインクの匂いのせいだろうか。

 小康状態は一瞬で過ぎ去り、俺の腹は再び猛烈に動きはじめる。

 俺は約束の地を求めて、さまよう。

 俺は背中をじっとりと濡らしながら前を行く人をかきわけていく。

 どうしてこれほどまでに人が多いのか。

 横一列になって歩くな。邪魔だ。

 俺は進む。

 スマートフォンをいじりながら歩いている男にぶつかる。男がちっと舌打ちをした。いつか殺してやる。

 耐えろ、俺。耐えろ、この逆境に。約束の地まではあと少しなのだ。


 ◆◆◆

 

 私たちは何度も突撃を試みたものの、いとも簡単に押し返されていた。

 「この地で囚われの身のまま干からびるのだ」

 巷では諦めてしまったものたちによる終末論がまことしやかに語られ、一種の宗教と化していた。

 「我らはここで干からびていく。それが神の思し召しなのだ」

 「だから、心穏やかに神の意思を受け入れるのだ」

 私の中にあった諦めの気持ちは、このような諦めに同化はしなかった。不思議なことだが、むしろ、諦められないという気持ちになったのだ。

 最近知り合いになったものに相談する。私たちに必要なのは皆を奮い立たせることばなのだ。

 あの子はたくましくみずみずしい。あの子の言葉ならば皆に届くだろう。

 「我らは何度でも突撃する。何度押し返されても突撃する。どんなに敵の守りが硬かろうが、我らは突破する!」

 あの子は期待以上だった。言葉だけではなく先陣をきって進み、跳ね返されても皆に語り続けるあの子にまわりの皆は魅了され、ついていった。

 あの子が叫ぶ。

 「推して参る!」

 私も続いてわめきちらしながら突撃した。

 敵の門が緩んだ。

 私たちは歓声をあげて続く。

 「我らは約束されし地へと進むのだ!」 

 とうとう門が開く。

 一度崩れてしまえば、どのような難敵と言えども私たちを押し止めることはできない。私が幻視した未来は偽りだった。横では宗教を興していた仲間が歓声をあげながら進んでいる。偽りの予言者よ。私は自分と諦観していたものたち全てにかける言葉を考える。もちろん今更そんなことを伝えても野暮だから私の中にとどめておく。それでも私は歓喜とともにわきあがった言葉を憶えている。ああ、すべてを捨てて本物の神の意志に身を委ねようではないか。

 私たちは歓声をあげて外に飛び出した。


 俺は自分の社会的な死を悟った。


 人々の海が割れる。

 俺は約束の地にたどり着けなかった。奇妙な解放感に包まれながら俺は内またで歩む。

 支えきれなくなったものがプライドとともにぼとりと落ちた。

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