5

 八月四日


 岩崎の講習を終えた俺は、彼女との待ち合わせ場所である【3-A】の教室へと足を運んでいる。


 講習の終わり際、岩崎は俺にありがとうとだけを囁いた。この時の俺はその言葉を荷物を届けてくれて感謝しているという意味として受け取った。


 その言葉が持つ質量がどれ程の物であれ、誰かに感謝されるのは素直に嬉しかった。


 俺はその余韻を引きずったまま、目的地の扉を開けて「おはようございます」と言葉を放つ。


 待ち人の声にカーテンを除けて、窓から身を乗り出すようにして夏と戯れていた彼女は振り向いた。


 僕の姿を視認した彼女は微笑みながら「元気だね」と言う。


 俺はその瞬間、彼女の様相と朱夏の背景がまるで写真のように確立されたワンシーンの如く、眼球に焼き付いた。


 「暑くないですか?」 


 俺はあたかも普通の反応をしていますと言わんばかりに会話を続ける。


 すると彼女は窓を閉め、空調の電源を入れて、「そんなことないよ」と言った。


 俺はシャツの胸元を小刻みに動かして、汗ばんだ身体を冷却させようとした。


 些細な教室移動でもこの気温だとたまらない。


 「そこ、座って」


 彼女は二日前と同じ席を指で差す。

 俺と彼女は再び、一つの机を囲んで向き合う形になった。


 「さて、本題に入ろうか」


 彼女は既に机上に広がっていた原稿用紙の数々を一束にまとめて、机で均す為に打ち付けた。


 トントンと軽い音が室内に響く。


 そして彼女は整頓した紙の束を俺の前に差し出して言った。  


 「これ、読んでみて」 


 「それは良いんですけど、時間が……」


 待ち時間を気にしている俺に彼女は「大丈夫、時間がいくらかかっても構わない。大切なのはこの物語がちゃんと君の中二入っていくかどうかだから」と優しく諭す。



「分かりました、読ませて頂きます。水嶋さん」


 彼女がもたらしてくれた安堵の末、俺は真摯にこの作品に向き合おうと思った。苗字を言ってしまったのも、それが故かもしれない。


 俺の決意の返事を聞いた彼女は「君は律儀だな、それに水嶋さんなんてよしてくれよ。そうだ、後でお互いをどう呼び合うか考えようか」と物珍しそうに笑う。


 そんな彼女の表情を一目に、俺は物語の世界へと耽っていくのだった。

 

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