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 彼女からの質問は、まさに究極の選択と呼ぶに相応しいものだった。


 「夢幻」が何なのか。物体なのか、形をなしえていない曖昧な物なのか。


 この状況下においてはその真意が測りかねる言葉であるため、俺は少しの間沈黙せざるを得なかった。


 鉛の様に冷たく、重たい静寂が彼女と俺の周りを漂う。彼女はそんな俺を待っていてくれている、その不自然な優しさが余計にこの質問に対する意味を混乱させた。


 肯定か否定か。

 それだけの単純なアンサー。たったそれだけだからこそ、俺は……。


 引き出しの中でがんじがらめになり、解けなくなったイヤホンの様に脳内で輻輳している思考を遥か彼方へ置き去りにして、俺は口火を切った。


 「──知っています」


 意を決して答えた刹那、胸に閃光の如く、鋭い痛みが突き抜けていく。


 重圧に耐えかねて、反らしてしまった顔を上げると彼女は「そう」とか細く呟いた。


 そして教室の中心の席へと歩き出し、唖然としていた俺に彼女は手招きをして言った。


 「──ほら、私の向かいの席に座って」


 戸惑っている俺は彼女という大川に浮かぶ、一隻の草舟の様に促され、流されるまま、彼女の示してる椅子へと向かった。  


 席についた俺たちは持ち主の知らない、一つの机を囲んで向き合った。


 まるでありきたりな青春もののプロットの様だと感じてしまう。むしろ世間一般から見向きもされないその平凡さが俺には愛しく思えた。


 すると彼女は持っていた、紙の束が入っているであろう封筒の封を開けて、その中身を机上に並べ始める。


 細くしなやかな色白とした指がやけに綺麗に見えて仕方がない。


 一通り広げ終わった彼女はその中から一枚を手に取り、俺の眼前で広げる。


 「見て」という声が原稿用紙の奥から聞こえてくる。注視するとその紙には達筆な字で書かれた文章とその横の修正の意味合いの赤いボールペンの文字が刻み込まれていた。


 これは物語だ。 

 綴られた文脈。何より「想実」という題名の下の水島なぎという名前がその全てを表している。


 「ご覧の通り、私は小説を書いている。それで急な話なんだが、君にはこの物語を読んだ感想を私に伝えて欲しい。それともう一つ頼まれてほしいことがある」  


 そう言うと彼女は真剣な表情で俺の瞳の奥を見据える。


 「もう一つ?」   


 「えぇ、君の見ている世界を私に譲ってほしいって話なんだけど」  


 意味不明だった。

 百歩譲って、小説のご意見番をしてくれという言い分は理解できる。


 後者の俺の見ている世界が欲しいって訳が分からない。 


 「君は困惑してばかりだな」


 彼女はそんな俺の姿を見て、不思議そうにぼやいた。


 誰のせいだと思ってねん!!と俺は心の底でけっこう強めにツッコミを入れる。


 ちなみに俺に関西の血は流れていない。


 それと同時に直感的に思った事がある。もしかしてこの人、対人のコミュニケーションが下手なタイプではないのか?という気付きだった。


 「あの、俺の見ている世界って何の事ですか?」


 前述を踏まえ、俺は丁寧に質問をした。  


 彼女は唇の右端を少し上げ、良い質問だねと言いたげな様相で語り始めた。


 「私は小説を書いている。それはさっき君にも言ったことだが、それは私の見えている世界を私なりに表現をして、読者へと届けているという言い換えもできる。要は君の見ている世界を私に譲ってほしいとは私の紡ぐ物語の一片となってくれという事さ、分かるね?」 


 どこぞの教授よろしく、彼女は腕を組んでいる。


 説明を聞いても、さっぱり分からなかった。

 だけど、これ以上の禅問答は面倒くさくなった俺は「分かりました」の一言で済ませる。


 すると彼女は満足そうに頷いた。


 会話を重ねるにつれ、俺の中でこの人に抱いた第一印象と中身のイメージが剥離しつつある。


 これは青春プロット……なのか?


 先程のエモーショナルな感覚を感じ取ってしまった自分に呆れそうになる。


 その妙な空気感を分断する様に、校内にチャイムが鳴り響いた。


 その音を聞いた彼女は「もうそんな時間か」と携帯を取り出し、席を立つ。


 その姿を座りながら見つめる俺に、彼女は「引き受けてくれるんだね。それじゃ二日後にまた、ここで」と言いだした。 


 幸いなのかどうか分からないが、二日後も俺は学校で講習を受けなければならなかった。   


 偶然、彼女と予定が一致する。


 再度、俺は「分かりました」と返事をした。


 「物分りが良いな君は、では頼んだよ」   


 と言い残し、綺麗な黒髪を翻して彼女は教室から立ち去った。  


 「まるで嵐の様な一日だったな」と独り言を言いながら、俺も教室から離れる。


 昼間の熱気が嘘のように閑散とした、玄関口の靴箱から靴を取り出し、外へ出る。


 夏の日照時間は長い。世界はまだ灼熱そのものだった。


 俺は父親に振る舞うための夜ご飯の献立を考えながら、木漏れ日の道を歩む。


 今日は座っていただけなのにやけに疲れた。

 

 帰りにアイスを二つ買って、それを一人で食べながら帰宅した事は母には内緒だった。

 



 

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