3
私以外誰もいない、空虚な箱庭。乱雑に置かれた椅子と机。認知する者がいなければ存在しないのと同然な外の景色。求愛する蝉の声。焼き尽くすかのような夏の日光。
夏のクラスルーム。
その全てを構成する要素の一部として今、私は混入している。誰かが私主体の物語を書いていたって不思議じゃない。そんな錯覚が起こせてしまう程に世界は私を除いて完璧だった。
【小説経験則】と【小説幻想則】
この二つの規則を十二分に満たせた時、きっと傑作は完成するのだろう。今回提出した文章の中には経験が足りていなかった。それは執筆途中にも書き上げた後にも痛感した。
分かっていても、私が言葉という名の生き物の手綱を握り、完璧に制御することは至難を極めていた。
書きたいものと実際に書き表せるものとの差が存在するのだ。その差が余りに歯がゆく、苦しい。
私は黒板の上に設置されていた、縁が黒い時計に目をやった。当初予定していた時刻から既に三十分が経過している。
先生には校正を頼むのはこれが初めてではなかった。これまでも先生に頼ってしまっている現状だ。的確にアドバイスをくれる先生の言い分を守り、小説を書く感覚を享受していた自分に腹が立つ。
それだけに先生が予定の時間に遅れている事が心配だった。私は椅子から立ち上がり、職員室へと向かおうとした。
扉の取っ手に指をかけた、その時だった。
扉をノックする音が聞こえてきた。
私はようやく先生が来たのだと思い、はいと返事をしながら扉を開けた。
だが、そこには私の知っている人間の姿はなかった。私よりも背が高く、純白の夏服からあらわになっている、日に焼けていない細腕が特徴的な青年が目の前に立っていた。
彼は私を見るなり、驚いた表情をした。それもそうだ、出てくる人間と入ってくる人間がこうも同じタイミングで鉢合わせるなど滅多に無いことだ。
表情には出していないが私も驚いている。
刹那、彼が口を切った。
「あの、水嶋なぎさんですか?」
突如出てきた、自分の名前に動揺しつつ、応える。
「はい、そうですけど。どうしてここに?」
すると彼は手提げの鞄の中に手を入れ、私に「想実」の原稿を差し出して、言った。
「これを水嶋なぎさんに渡してくれと、岩崎先生から頼まれました」
分からなかった。どうして先生は第三者を介して、この原稿を私の下へ届けさせたのか。どうしてこの男子生徒だったのか。咄嗟の連続に脳が処理しきれていない。
「あ、ありがとう」
状況が判断しきれない私には、お礼を言うだけで精一杯だった。
「それでは、失礼します」
彼は私を避けるようにして、立ち去ろうとした。その様子が気になった。
「──ちょっと待って」
私は彼を呼び止め、周囲に漂う、今までに感じた事のない空気感の正体を探ろうとした。
「え?他に何か……」
彼はぶっきらぼうに言い放つ。そんな彼に私は質問した。
「名前は?それと学年を教えて」
すると、彼は異常なまでの戸惑う表情を見せる。自分では気が付いていないのか、平静を保っているつもりらしく、平然と答える。
「二年生の和泉 湊と言います」
知らない名前だった。
顔にも覚えがない。だけど彼には何かある。作家としての直感が打ち鳴らす警告音に、私は従順だった。
だが、正直な話、これ以上することが何もない事も事実だった。
やはりこのまま放っておこう。
私も家に帰って、この原稿の推敲をしてなくてはいけないし。
「ごめん、やっぱり何でも──」
別れの言葉を言いかけた、その時だった。
脳裏に先生の言っていた言葉がよぎる。
「水嶋はさ、もっとフラットに人と接してみたらどうかな?そうすることで水嶋の紡ぐ文章もより良い変化を遂げられる様になるかもしれないし、友達とまではいかなくても、軽く話すだけでもその人を知るってことは面白いよ」
こんな時にも先生。確かに先生には感謝してる。だけど先生の言う事になら何でも従うの?
そうじゃなくて、もっと自分の感覚と言葉で……。
私は言いかけた言葉を飲み込む。
翳っていた太陽の光が窓から差し込んで、私と彼を眩く照らし出す。
額と背中に滲んでいる汗は多分、この暑さのせいだけじゃない。蝉の声すら聞こえない静寂の中、私は知らない彼に向けて、問を投げかける。
「夢幻って、知ってる?」
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