第23話 夏の町(7)
「香水の臭いがとれねぇ」
虎児はげんなりしていた。さっきぶつかった男が落とした香水は足袋に付いていた。ほんの少量なのに、脳の奥を叩いてくるような臭いを放っている。
「お昼の休憩になったら川に行きましょう。水で洗えば匂いが取れるわ」
そう励ましてくれるユメを、虎児は一瞥した。
「……ユメは、嫌じゃねぇのか?」
「何が?」
「だってクセェだろ? 俺の隣を歩くの、嫌じゃねぇか?」
「平気。この香り、けっこう好きよ。甘くて華やかよね。一体どんなお花から作られたのかしら?」
遠くの国に思いを馳せるように、ユメはうっとりとしている。
虎児はホッとした。ユメという娘は、見た目はおとなしそうだが、己の感情に素直だ。虎児は、彼女のそういうところを好ましいと感じている。
虎児の母親は無口で、いつも暗い表情をしてた。何故そんな顔をしているのかを尋ねても、答えてはくれなかった。虎児は、高圧的な父のことが苦手だったが、何を考えているのか分からない母の方が何倍も恐ろしく感じていた。
なのでユメの素直さや分かりやすさは有り難いものだった。
……だからこそ、虎児は驚いた。
信じられない出来事が起きたのは、昼だった。
午前の商いを終えたユメが、短い橋が架かった川に連れて行ってくれた。
「うわああん」
川辺には、皐月の町の住人がいた。大きな声で泣く子供と、困った顔のおばあさん。
「助けてよ! ここままだと、あの子が溺れて死んじゃうよ」
「ダメよ、川は危ないから入ってはいけないの」
2人の会話を聞いて、ユメはサッと青ざめた。
「まぁ、大変!」
狭い川幅のちょうど真ん中に岩がある。その上には黒い仔猫がいた。
「猫は水が嫌いだから、あんな所に行くわけがないわ。誰かがいたずらでやったのでしょうね。酷いわね」
おばあさんが話している途中で、ユメはもう行動を起こしていた。背負子を下ろし、赤い着物の裾をまくり上げる。そしてずれ落ちないよう膝の辺りでギュッと括ると、穏やかな流れの水に入っていく。
「危ねぇぞ! 俺が行くから」
「大丈夫よ、ここで待ってて」
虎児の制止を振り切って、ユメは進んだ。最初は足首ほどだった水が、すぐに太ももの高さになる。仔猫は不安そうに鳴いたり、そわそわと水面を覗き込んだりしていたが、ユメに気づくと大人しくなった。助けてくれる人間だと分かるのか、抱き上げられても暴れたりしなかった。
「わー、やった! お姉さん、ありがとう!」
ユメが無事に仔猫と戻ってくると、子供は両手をあげて喜んだ。
虎児も安堵した。子供に仔猫を見せてあげるユメの姿に、自然と笑みが溢れる。
けれどこの場で唯一、おばあさんだけが笑っていなかった。彼女は真顔で、裾がまくれたままのユメの足をじっと見つめていた。
「……貴女、その足はどうしたの?」
ユメの両足には、痣があった。1つではない。大きかったり小さかったり、青色だったり黄色だったりと、幾つもの痣が散らばっている。
それらが呉服屋の〝奥様〟の暴力のせいで出来たものだと、虎児にはすぐに分かった。
「あぁ、これは、その」
「まさか親に叩かれているの?」
今度は、おばあさんがユメの話を途中までしか聞かなかった。
「可哀想に。貴女は性格がとても良さそうだけど、その体だとお嫁さんに行けないわねぇ」
虎児は、驚いた。このおばあさんは嫌味を言っているわけではなく、本気でユメを憐れんでいる。そういう話し方だった。純粋に、こんなことを言っているのだ。
(何で……)
そしてさらに信じられないのは、ユメの反応だった。
ユメは笑っていた。何も言い返さずに、ただヘラヘラしていた。
(お前さんを叩いてるのは、親じゃないだろ)
ユメの親とは、つまり死んだ母親だ。何故、母親を悪く言われて、黙っているのか。分かりやすいと思っていたユメのことが、虎児は全く分からなくなる。
仔猫がまた不安そうに、鳴いた。
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