第9話 春の夢(9)

(早く呉服屋に戻らないと)


 皐月の町での商売が終わり、ユメは卯月の町へ歩いていた。


(早く、早く)

 

 けれど今日は足が何となく重く感じられ、思うように動かなかった。

 どんより曇った空の下をそれでも進んでいくと、やがて視線の先に大きく広がる緑色が見えてくる。


 虎児がいる竹林だ。


 誰もが恐れて通らない場所。

 ユメも初めて竹林の出入り口を見た時は、緑の怪物が口をガバッと開けているように感じられた。


(でも虎児さんと話すようになってから、私はこの竹林がちっとも怖くなくなった)


〝竹の怪さん〟と呼び続けていたユメに、彼が本名を教えてくれたのは何時いつだったか。


 虎児は口数が多い方ではなかった。

 けれどその分、ユメの話をたくさん聞いてくれた。

 町で知った噂話や流行、商売のことを口にしながら〝私の話、つまらないと思われていないかしら?〟と心配になることもあったが、



〝あの黄色の反物は今日も売れ残っているのか?〟



 と、虎児が尋ねてきた日があった。

 黄色の生地に、粉雪のような花びらが散らばる反物。とても良い物なのに流行に合わないから誰も買ってくれないと、ユメがサラッと一度だけ零したことを、虎児は覚えていてくれた。


 虎児は、ユメが話した内容をよく覚えていた。

 つまりそれは適当ではなくきちんと聞いて……いや、くれているからだ。ついこの間だって、ユメが〝前髪が伸びて邪魔だけど、切る時間が無いんですよね〟と言えば、数日後に〝前髪、まだ切ってねぇのかよ。どんどん伸びるぞ〟と首を傾げていた。


 ユメは嬉しかった。

 まるで物語の続きを待っているかのように、虎児はユメの話の続きを気にしてくれている。


 呉服屋に来てからは泣いてばかりいたけど、ユメは元々は活発な娘だった。人と話すことが大好きな人間だった。

 呉服屋には味方がいない。卯月の町では〝商人〟の顔を貼り付けてニコニコしていなければならない。

 ユメが素でいられるのは、この竹林の中だけだった。

 いつしか、竹林で虎児と言葉を交わす数分間だけがユメの心の支えになっていた。


 けれど、虎児は急に姿を見せなくなった。


(私、嫌われるようなことを言ってしまったのかしら)


 虎児を見かけなくなって3日目になる。

 3日前までは、この一本道を通る時間が楽しみだったのに。



〝あそこには〝竹の怪〟という恐ろしい化け物がいる〟


〝そいつは人間を嫌っていて、竹林を通る者を見つけると恐ろしい声で話しかけ、追いかけてくる〟


 街の噂話を思い出す。


(やっぱり、虎児さんは人間が嫌いなのかしら?)


 嫌いな生き物に懐かれて、うんざりしたのだろうか。


 ユメは竹林に入ろうとして……寸前で足を止める。


(急がないといけないのに)


 遅れたら、奥様に叱られてしまう。叩かれる。またアザが増える。


(早く、早く……)


 今日もまた虎児には会えないだろう。彼は現れないだろう。その現実と直面することになろうとも、ユメは帰らなければならない。

 意を決して、顔を上げる。


「よう」


 右足にぐっと力を入れた時だった。

 ユメは声をかけられた。


 少年の声だった。

 


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