第8話 春の夢(8)

〝竹の怪〟と初めて会った時、ユメは驚愕のあまり叫んで、泣いて、無我夢中で走った。


(本当にいた! 噂じゃなかったんだ!)


 竹林を出た途端に足の力が抜けて、へなへなと座り込んだ。

 恐る恐る、後ろを振り返る。

 竹の怪は追いかけてきていなかった。


(白くて長い髪に、赤い両目……)


 心臓が口から飛び出そうなくらいドキドキしており、ユメは必死に呼吸をする。


(耳は、猫や犬みたいに頭の上の方に耳が生えていた。しかも狸みたいに形が丸かった。あと、狼みたいに牙が鋭かった!)


 混乱していたわりに、その姿をユメは鮮明に覚えていた。


(こ、怖かった! あぁ、だけど私、ちゃんと生きてる!)


 無事だ。無傷だ。


 顔を上がると、目の前には長く緩やかな下り坂がある。そこを進めば、卯月の賑やかな商人町しょうにんまちが広がっている。


 この日、ユメは普段よりもずっと早く呉服屋に着いた。奥様は怪訝そうな顔をしていたが、ユメを叩かなかった。


 嬉しくて、ホッとして、久々に良い気分で布団に入れた。


……そうだったはずなのに、現実は残酷だった。


 寝る直前、ユメは母親の形見である髪留めを失くしたことに気がついた。

 呉服屋に持ってきた母親の形見は奥様に燃やされてしまった。唯一守れたのが、あの髪留めだけだった。


 ユメは、絶望した。

 





 




 どんなに落ち込んでも朝はやって来る。

 憂鬱を抱えながら、ユメは皐月の町へと反物を売りに行った。


 この日の帰りも、竹林の一本道を通った。

 竹の怪が音も気配もなく現れたので、ユメはまたもや驚いて逃げた。

 次の日も、その次の日も、同じことが続いた。


(思った通り、竹の怪は手を出してこない。彼はきっと、人間を襲わないんだわ)


 しかし、推測が確信になろうとしていた7日目に、事態は変わった。

 とうとう竹の怪に追われて、進路を塞がれてしまったのだ。




〝いい加減にしろ!〟


〝いつもいつも勝手に来て、勝手に逃げて! お前さんは一体何なんだ!?〟




 彼の荒々しい声は、奥様の怒鳴り声と重なった。ユメは途端に頭が真っ白になり、幼子のように大声で泣いてしまった。


 すると、


〝ほら、あそこ! 蒲公英たんぽぽが咲いてるぞ!〟


 竹の怪の口から、予想もしなかった言葉が出てきた。


 瞬間、ユメの脳裏に昔の記憶がよぎった。

 毎年春になると、蒲公英の綿毛を飛ばして遊んだ。空を舞う子供たちに、ユメが〝がんばれ!〟と声援を送ると、母はいつも優しい笑顔を浮かべていた。


 さらに竹の怪はユメの予想を超える行動をとる。

 羽織の袖で、涙でぐちゃぐちゃになったユメの顔を拭いてくれた。続けて、失くしたと思っていた髪留めを差し出してきた。


 


「……ねぇ、お母さん。彼は何を考えているんだろう? どんな心を持っているんだろう?」


 その晩、ユメは髪留めに向かって問いかけた。



〝トトもカカもいなくなって退屈だったから……お前さんたちを揶揄って遊んでただけだよ〟



 竹林を訪れる人間を追いかける理由について、竹の怪はそう答えた。



〝……あなた、1人なの?〟



 ユメは思わず訊いてしまったが、この質問には返答が無かったので詳しくは分からない。


(私と同じで、親がいない。あの大きな竹林で、1人ぼっちで暮らしているの?)


 

 翌日。

 思い切って、ユメの方から彼に話しかけてみた。

 忘れていた花の美しさを教えてくれた礼を伝えたかった。


 どんな反応をされるか内心ビクビクしていると、



〝荷物が軽い方が早く歩けるだろう? だから、竹林の出口まで俺が持ってやる!〟

 


 竹の怪は、何とそんなことを言ってきたのだった。戸惑うユメにかまわず、彼は荷物を持ってズカズカと歩き出す。

 

(……あれ? 軽い?)


 ふわりと軽くなったのは、風呂敷を握っていた両手だけではなかった。


(何だか、胸の辺りも軽くなった気がする。悪い物が全部、外に出ていったみたいに)


 とても不思議な感覚だった。

 

 竹の怪の後ろ姿を見て、思う。

 ここ数ヶ月、自分にこんな風に接してくれる者はいなかった。

 涙を拭ってくれた。大切な物を守ってくれた。帰る時間を気にかけてくれた。自分のことを、心配してくれた。

 それら全てが母親を連想させた。


(彼のことを、もっと知りたい)


 これをきっかけに、ユメは竹林を通るたび、竹の怪と話をするようになった。


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