第7話 春の夢(7)

「お前は鈍臭い子だね! 体力くらしいか取り柄が無いくせに、もっと早く戻ってこられないのかい!?」


 広い和室に怒号とが響く。

 甲高い声の主は、上座に立つ中年の女性だった。狐のような細い目で睨む先……下座では、ユメが畳に額をつけて座っている。


「しかも今日は売れ残りが多いじゃないか! あぁ、この役立たず!」

「奥様、申し訳、ありません……っ!」

「うるさい! 今夜のあんたのご飯は減らすからね! 仕事が出来ない奴に食べさせる米は無いんだよ!」


 ユメはじっと我慢する。もう慣れてしまった。怒鳴られることも、土下座も、空腹も。


 けれど、


(痛い……痛い痛い!)


 どうしても、この痛みには慣れなかった。

 怒号と共に鳴り響く〝バシッ〟という物音の正体は、ユメが竹刀で叩かれているものだった。

 頭、腕、背中と、体のあちこちに鋭い痛覚が走る。そのたびに叫びたくなったが、騒ぐと女性……〝奥様〟の機嫌はさらに悪くなるので、ユメは歯を食いしばってただただ時間が過ぎるのを待つしかない。


 しばらくすると、ようやく気がおさまったようで、奥様は竹刀を放り投げた。


「ふん! 売女ばいたの娘が!」


 最後にそう吐き捨て、部屋から出て行く。

 荒々しい足音が完全に聞こえなくなると、ユメは顔を上げた。


「……〝売女〟」


 慣れないことが、もう1つある。


「違う……。お母さんは〝お母さん〟だもん……


 母親を罵られることだ。


 ユメは懐に大切にしまっている髪留めを懐から取り出す。小さな白い花の飾りが付いた、母親の形見。


「ねぇ、どうして私を置いて死んでしまったの?」


 会いたいよ。

 お母さんと2人で暮らしていた頃が幸せだったよ。


 残りの言葉は声にならず、代わりに涙となって溢れ出た。




 





〝今日も奥様のお仕置き、すごかったねぇ〟


〝あの子が呉服屋ここに来て、そろそろ1ヶ月よね? ほとんど毎日叩かれているわよ〟


〝あれだけやられたら、きっと全身がアザだらけよ。跡に残ったらお嫁に行けないんじゃないかしら。可哀想にね〟


 可哀想という意見に全員が賛同しているのが、に聞こえてくる。


 話をしている少女たちは奉公人専用の部屋、話の中心人物であるユメは隣の物置きにいた。壁が薄いせいで、彼女たちの声は丸聞こえだった。


(可哀想とは言ってくれるけど、誰も助けてはくれない)


 仕方のないことだった。

 ユメに関われば、奥様に目をつけられる。この呉服屋では、奥様は女帝のような存在だ。誰も逆らえなかった。

 青や紫のアザを、濡れた布で冷やしているユメを見かけても、みんな通り過ぎていく。


だって、見て見ぬふりをするだけ……)


 はぁ、とため息を吐く。


 木箱や書類が詰め込まれた物置きは、布団を敷いたら足場がなくなるほど狭い。しかも埃臭いし、格子付きの窓は小さすぎて月が見えない。まるで牢屋のようだ。


(私の帰りが早くなれば、奥様に叱られないかしら? 皐月の町から、卯月の町まで最短で移動するには……)



 あの竹林を通るしかない。


 しかし1ヶ月前から働き始めたユメに、商人たちが教えてくれた情報が頭をよぎる。


 卯月と皐月の境目にある巨大な竹林を通ってはいけない。


 あそこには〝竹の怪〟という恐ろしい化け物がいる。


 そいつは人間を嫌っていて、竹林を通る者を見つけると恐ろしい声で話しかけ、追いかけてくる。


 だから竹林は通らず、迂回した方が良い。



(……あれ? でもよく考えたら〝竹の怪〟はただ人間を驚かすだけで、危害は加えていない?)


 ユメは思い返してみる。いろんな商人から何度も聞かされたが、暴力を振るわれたという話は出てこなかった。


 ごろん、と寝返りをうつ。


(もしかして走って逃げちゃえば、何とかなるんじゃないかしら?)


 そうすれば奥様に叩かれないかもしれないと、淡い期待が生まれる。

 漠然と抱いていた竹林への恐怖よりも、寝返りをしただけで全身を襲う痛みの方が勝った瞬間だった。


(よし、明日は竹林を通って帰ってこよう。……きっと大丈夫だよね? も、もしも襲われても、頑張って逃げれば、)



〝あはは!〟



 不意に、楽しそうな笑い声がした。

 隣で少女たちがはしゃいでいる。耳を傾けると、恋の話をしているようだった。


 もしも自分が竹の怪に襲われたとしても、誰も悲しまないんだろうな。


 ユメはそう思いながら、瞼を閉じた。

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