第4話 春の夢(4)
「あなたは、私のことを怒っていないの?」
「は?」
虎児は首を傾げた。
「だってこの竹林は、あなたの縄張りでしょう? なのに私がしつこく通っているから、いよいよ怒ったのかと思って」
「ここは俺じゃなくて、俺のトトのモノだ。トトは竹林を荒らす人間には罰を与えていたが、ただ歩くだけの人間なら見逃していた」
「だけど商人たちの間では噂になっていたから。竹林を歩くと〝竹の怪〟に追いかけられるって」
「う……」
虎児は言い淀む。
「ただの暇つぶしだ!」
「暇つぶし?」
「トトもカカもいなくなって退屈だったから……お前さんたちを揶揄って遊んでただけだよ」
「……あなた、1人なの?」
ドキッとした。娘が虎児をじっと見つめてくる。あまり身長差が無いので、娘の視線はほとんど真っ直ぐに虎児に届く。
「そんなことよりコレ! ほら持ってけ!」
虎児は乱暴に話を変えて、髪留めを娘の手に握らせた。
「あ、この髪留め……! てっきり失くしたと思っていたのに!」
「お前さんと初めて会った日に落ちていたぞ」
「もしかして、あなたが私を追いかけていたのは、これを返すためだったんですか?」
「そうだ」
「やだ、私ったら。そうとも知らずに逃げてしまって……ごめんなさい。これは母の形見なんです」
(っ! この娘もカカがいないのか?)
「拾ってくれてありがとうございます」
泣いて腫れた目を細めて、娘が笑った。
瞬間、虎児の心臓はまた跳ねた。娘が大切な髪留めを落としたのは虎児が驚かせたからだ。〝ごめん〟も〝ありがとう〟も言われる立場ではない。
「……俺は別に怒ってねぇよ。ただ分からねぇだけだ。お前さん、どうして竹林の一本道に来るんだ?」
「私は、卯月の商人なんです。卯月の町にある有名な
娘は答える。
「毎日、皐月の町まで行って
「だから一本道で近道をしていたのか」
「はい。竹林を迂回すると、日が暮れてしまうから。早く帰らないと、奥様に叩かれてしまうから」
「叩かれ……!?」
「〝竹の怪〟に驚かされることより、奥様に叩かれることの方が怖いんです」
やや強い風が吹いた。
2人の両脇に広がる竹の葉がざわざわと鳴る。その音は雨音に似ていた。
「あなたは、暴力を振るわないでしょう? 〝竹の怪〟の噂で聞くのは、追いかけられたとか、話しかけられたとか、そういうものばかりだった。暴力を振るわれたと言う人は1人もいなかったわ。だから、私はここを通っていたんです」
「……」
虎児は唖然とした。
(〝奥様〟に叩かれることが、俺よりも恐ろしいだと?)
白い髪、赤い両目、虎のような耳と牙。この異形の化け物よりも、たかが人間の女に怯えているというのか。
「私、もう帰らないと」
「あ、あぁ、そうか」
娘は、髪留めを着物の懐に入れた。
「本当にありがとうございました。さようなら」
やや小走りで、娘は卯月の町へ進んでいく。
細い背中に似合わない大型の背負子が遠ざかるのを、虎児は見送った。
やがて娘の気配が消えて、竹林をざわつかせていた風も止んだ。
静かになった竹林で虎児は〝あっ〟と気がついた。
こんなに長く人間と会話をしたのは、生まれて初めてだった。
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