第一章 春

第1話 春の夢(1)

「うわああ!」

「助けてくれ!」


 とある春の夕刻。

 大の男2人が涙目で叫びながら、走っていた。


「お前のせいだぞ! 俺は迂回しようって言ったのに、お前が近道をしたいなんて言うから!」

「うるせぇ! 商売は時間が命なんだよ!」

「って、俺らの命が失くなりそうじゃねぇか!」

「喋ってねえで走れ! あいつに…… たけかいに捕まるぞ!」

『〝竹の怪〟って誰のことだぁ?』


 その声に、男たちはギクリとした。


『あぁ、俺のことか。に住む俺は、いつのまにかそう呼ばれていたのか』

「ひっ!」


 まるで耳元で囁かれているようなのに、声の主はどこにもいない。見えるのは視界の左右に広がる長い竹林ちくりんだけだ。


『教えてくれよ。竹の怪は、どんな風に語られている?』


 男たちはハッと息を呑んだ。今さっきまで視界を覆っていた竹が……緑色が、一瞬で白色に変わった。


 白色の正体は、空中を漂う長髪だった。

 次に見えたのは両の耳。猫と同じ箇所にあり、形は丸く、茶色っぽい毛に覆われている。

 その次は唇。三日月のように曲がり、2本の牙が煌めいていた。

 最後に、こちらを見据える目。血を思い出させる鮮やかな赤色の眼球。


 異形。

 異形。

 人間ではありえない姿。


 ただでさえ混乱した男たちの脳に、異常な情報が暴力的に飛び込んでくる。


「で、出たぁぁっ!!」

「人殺しの化け物だぁぁ!」


 男たちはいっそう大きな声をあげた。元来た道へと逆走していく。


「……ぷっ」


 逃げる背中がやがて見えなくなると〝竹の怪〟は吹き出し、


「はははっ! 大人があんなに怯えて、みっともねぇな!」


 腹を抱えて転がった。

 羽織と長髪が地面にバサっと広がる。淡い水色の生地に青の模様が不規則に散らばった羽織。灰色の着物の袴はすそを紐で縛っている。靴は履いておらず、裸足だ。


 彼の名前は〝虎児とらじ〟という。〝竹の怪〟という呼び名は、人間が勝手に名付けたものだ。


「あー、おかしい。俺が怖ぇなら、竹林を通らなければいい。ここは俺の父親トトの縄張りだ」


 虎児が住む竹林は、卯月うづきの町と皐月さつきの町の境目にあった。

 卯月の町は商売が盛んで、皐月の町は富豪が多く暮らす地域だ。

 卯月の商人が、皐月の富豪に物を売りに行くには、竹林の中にある2キロほどの一本道を通るのが最も早い。それ以外の経路となると、巨大な竹林を迂回しなければならず、時間も労力も倍になる。

 けれど最近、この一本道を使う商人はほとんどいなくなった。原因は言うまでもなく虎児だ。彼が2ヶ月前から通りかかる商人にを出すようになったからだ。



〝人殺しの化け物だぁぁ!〟



 さっき言われた言葉を思い出し、虎児の笑いがピタッと止まった。


「……けっ。俺は確かに化け物だが、人を殺したことはねぇよ」


 少しの距離を追いかけて、驚かせる。それだけだ。


 虎児は仰向けで天を見上げた。竹と竹の葉の合間から見える狭い空は薄暗かった。もうじき夜が来る。


「今日はもう誰も来ねぇだろうな。寝床に帰るか」

 

 言い終わると同時に、虎児の耳がピクリと動いた。


(人間の足音だ)


 皐月の町の方からだ。卯月の町へ帰る商人だろうか。

 虎児は素早く竹林へと身を潜めた。耳を澄ませると、その足音が随分と忙しないことが分かった。よほど急いでいるのだろうか。


(女だ)


 まもなくして見えたのは娘だった。

 赤い手拭いを姉さん被りにして頭に結んでいる。手拭いと同じ赤色の着物は袖をたすき掛けにし、腹の下には白色の前掛けを巻き、背中には大きな背負子しょいこ

〝働く娘〟の典型的な格好だ。


 珍しい光景だった。あの娘は虎児と同じの10代半ば頃。若い女が、しかも1人きりで〝竹の怪〟がいる場所を通るなんて。


(見た目はおとなしそうだが、実は度胸があるのか?)


 確かめたくなった。

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