第26話 悪夢を消して

「どこ……? どこ……?」


 小さな女の子が、涙を流しながら暗い場所を歩いている。

 周りには誰もおらず、ただ1人だけだ。


「誰か……」


 震える涙声に応えてくれる人はいない。


 ここは澪の夢の中。

 彼女はこれまでに、何度も何度も繰り返し同じ夢を見ている。

 幼い頃の自分が、真っ暗な場所でひとりぼっちになり、誰かを探して必死に彷徨う夢。

 目が覚めた時には、いつも頬に涙が伝っている悪夢だ。


 特に夢を見るきっかけがあるわけではない。

 1か月間まるで見ない日もあれば、2日続けて見てしまうこともある。

 夏斗と一緒に田舎へやってきた夜。

 澪は夏休みに入って初めて、嫌というほど再生されてきた悪夢に苛まれていた。


「誰かいませんか……」


 4、5歳くらいの姿で、真っ暗な空間を歩いて行く。

 右手を何か探すように必死に動かしてみるが、何もつかめない。


 ――澪。


「……!」


 ふと、澪の名前を呼ぶ声が響く。

 父親か、母親か、それとも祖母か。

 誰でもいいからと、澪は手を伸ばした。

 しかし、続いて浴びせられた言葉に、澪は思わず手を引っ込める。


 ――澪。わがまま。

 ――金持ちだからって調子乗ってる。

 ――うざい。

 ――先生にひいきされててきもい。

 ――人のこと見下してるよね、絶対。

 ――性格悪そうだし友達なりたくないわ~。


「なんで……何でそんなこと言うの……?」


 澪は歩くのをやめて、その場にうずくまった。

 夢の中の彼女の姿は、幼いころのものだ。

 この何かを探して彷徨うという様子も、幼い頃にショッピングモールか何かで迷子になった時の記憶が元になっている。

 それでも決まって澪に浴びせられる言葉には、もっと大きくなってからのものも含まれていた。


「誰か迎えに来てよ……」


 実際に迷子になった時は、最後に祖母が迎えに来てくれた。

 優しく澪の手を取って、家まで連れ帰ってくれたことを覚えている。

 澪が霜乃木麗子を優しいと思った数少ないエピソードのひとつだ。

 それでも夢の中では、祖母も両親も、ましてや友達なんてものも助けに来てはくれない。

 ただ不定期に浴びせられる言葉に涙しながら、それでも右手だけは誰かに握ってほしいと前に伸ばして、うずくまり夜が明けるのを待つだけ。

 決まった時間に鳴り響くアラームが、澪を現実世界に連れ戻す救出の音になる。


「お願い助けて……」


 そんな声は誰にも届かない……はずだった。

 少なくとも今までは。


「澪、大丈夫だよ」


 そんな言葉に、澪はぱっと顔を上げる。

 そこに立っていたのは、優しくて温かい笑顔を浮かべた夏斗だった。


「夏斗くん……?」


 澪が呼び掛けると、夏斗はゆっくりと手を伸ばす。

 そして澪の差し出していた右手を、優しく包み込んでくれた。


“温かい……。”


 澪は絶対に離すまいと、夏斗の手をぎゅっと握り返す。

 そして涙を拭って立ち上がった。

 いつの間にか、澪に向けられていた悪意ある言葉は聞こえなくなっている。


「そばにいるって約束したもんな。大丈夫。そばにいるよ」


 夏斗は幼い澪の手を握って、そう笑いかけてくれる。

 澪はいつもよりずっと上にあるその笑顔を見上げて、何度も何度も深く頷いた。

 それから安らぎを求めて、手はしっかり繋いだまま夏斗の足に抱きつく。


“安心する……。もう怖くない……。”


 そう思ったのも束の間、澪は夢の中でさらに深い眠りへと落ちていった。




 ※ ※ ※ ※




「んっ……」


 朝。

 澪はひとり静かに目を覚ました。

 寝ている間に見た夢の記憶が、鮮明に頭の中に残っている。


“初めて助けが来てくれた……。それも夏斗くんが……。”


 今までこの夢を見た時は涙と共に目覚めていたのに、今朝はすごくぽかぽかした気持ちになっている。

 そして澪は、自分の手を夏斗が握ってくれていることに気付いた。

 それどころか、自分は彼の身体を抱き枕のようにして横たわっている。

 穏やかな夏斗の寝顔が、目の前にあった。


“抱きついたのは私なんだろうけど……手は夏斗くんが握ってくれたんだよね……。”


 嬉しくて、安心して、いつもとは違う涙が澪の目からこぼれそうになる。

 人前では絶対に感情を見せない『氷姫』のはずが、夏斗の前ではどんどん涙腺が緩んできていた。

 笑顔が出るには、まだ時間がかかるかもしれないが。


「んっ……」


 わずかな時間差で、夏斗も目を覚ます。

 そして寝ぼけた目で、すぐ近くにある澪の顔を見つめた。

 さらに数秒後、自分が抱き枕にされていることに気付く。


「あの……」

「あ、ごめんね」


 澪は慌てて、夏斗にかけていた手を離した。

 しかし繋いだ手はぎゅっと握ったままだ。


「夏斗くんが、手を握ってくれたんだよね?」

「いや、その、うなされてたみたいだったからさ。嫌だった?」

「ううん、全然。すごく嬉しかった。実は……」


 澪は自分が見る夢のことを、夏斗に細かく話す。


 決まって同じ内容の悪夢を不定期で見ること。

 いつもは誰も助けに来てくれないこと。

 それでも今日は、夏斗が優しく手を取ってくれたこと。


“やっぱり辛い夢を見てたんだな……。”


 澪の話を、夏斗は自分のことのように心を痛めながら聞いていた。

 それと同時に、自分の行動が澪のためになったことを知って嬉しくも思う。


「それでね、夏斗くん」


 全てを話し終えてから、澪は夏斗と繋いだ手にきゅっと力を込めて言った。


「きっと、これからも同じような夢は見てしまうと思う。それでもそのたびに、夏斗くんが手を握ってくれたら、怖い思いをして目覚めることはないはずだから。だから、だからその……」


「これから寝る時は、私の手を握っててほしい」


 澪のお願いに、夏斗は思わず目を見開く。

 しかし数秒の思考の後、微笑みながら頷いた。


「分かった。そばにいる」

「ありがとう」


 澪はほっとして頷くと、ふと思い出して言った。


「あ、そうだ」

「どうかした?」

「言ってなかったね。夏斗くん、おはよう」

「うん。澪、おはよう」


 田舎旅行の本格的なスタートとなる2日目が始まった。

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