第22話 茂さん

「あとどれくらい?」

「うーん、もう少しだと思うよ」


 澪が夏風邪から復帰して1週間と少しが経った。

 今日はいよいよ、夏斗の祖父母の家へと出かける日だ。

 といっても2人はすでに電車に乗り込んで、何本か路線を乗り継ぎながら4時間ほどの旅をしてきた。

 もうあと1駅で、夏斗の祖父母の家の最寄り駅である。


「とりあえず、駅に着いたらお昼ご飯を食べようか」

「うん。どこかいいところがあるの?」

「美味しいうどん屋さんがあるんだよね。こっちに住んでた時は、しょっちゅう食べに行ってた」


 夏斗にとっても、約4か月ぶりの里帰りである。

 ものすごく期間が空いているというわけでもないが、それでもやはり田舎に戻ることを楽しみにしていた。

 それに、澪に自分の育った場所を案内してあげたいという気持ちもある。

 夏斗の祖父母の手伝いと同時に、これは澪との旅行でもあるからだ。


「次は西里~。西里~。お出口右側です」


 そうこうしているうちに、目的の駅へと電車が停車する。

 それぞれキャリーケースを片手に、2人は電車を降りた。


「おお……」


 ホームに降り立つなり、澪が思わず声を漏らす。

 簡素な駅から見えるのは、どこまでも緑が広がる田園風景だ。

 川があり、奥の方には山がある。

 絵に描いたような、自然豊かな田舎の景色がそこにはあった。


“住んでる時は何とも思わなかったけど、少し離れて帰ってきてみると良い景色だよな……。”


 見慣れた景色のはずが、夏斗の目にも新鮮に映る。

 空気が美味しいし、風も心地よい。

 もちろん、澪は夏斗が感じている以上の新鮮さを味わっていた。


「じゃあ、お昼ご飯といこう」


 夏斗が歩き出すと、その隣を澪も並んで進み始める。

 5分くらい行ったところで、のぼりがはためく古い店舗が姿を現した。

 看板には「手打ちうどん“茂”」と書かれている。


「ここだよ。俺が言ってたうどん屋さん」

「何だか、すごく雰囲気がいいね」

「でしょ?」


 夏斗は暖簾をくぐり、引き戸に手を掛ける。

 ガラガラと扉を開けると、店内から威勢の良い声が聞こえてきた。


「いらっしゃい!」

「こんちは、茂さん」

「おおっ! 夏斗じゃねえか!」


 店内にいた男性が、夏斗を見て嬉しそうに目を丸くする。

 そして続いて入ってきた澪を見て、今度は目が点になった。


「こちらがこのうどん屋の店主の芦屋あしやしげるさん。みんなはしげさんって呼んでる。茂さん、こちらは霜乃木澪さんです」

「初めまして。霜乃木澪といいます」

「お、おう。これはご丁寧にどうも」


 茂は何度か瞬きを繰り返してから、夏斗の肩を抱き耳元で言う。


「お前、どうやってあんな美人さん捕まえたんだ? もう彼女ができたのか。都会ってすげー場所だな」

「いやいや、彼女じゃないから。それに茂さんだって、元は都会にいたでしょうよ」


 このうどん屋を茂が開業したのは、夏斗が生まれる少し前のこと。

 それまで茂は、東京のメガバンクで銀行員をしていた。

 夏斗なんかよりよっぽど都会を知っている、脱サラうどん店主である。


「まあいいや。座ってくれ」


 茂は厨房に戻り、夏斗と澪はカウンター席に座る。

 日射しがないだけでもかなり涼しく感じるが、程よく空調も効いていて、店内は非常に過ごしやすかった。


「本当は千尋ちひろもいれば良かったんだけどなぁ。部活の遠征だとか言って、遠くまで出かけちまってるわ」

「そっか。それは残念」


“千尋さん……名前からして女性みたいだけど……。”


 夏斗と茂の何気ない会話が、澪の胸に引っかかる。

 その視線に気づいて、夏斗が補足の説明を入れた。


「千尋さんっていうのは、俺の中学の時の担任の先生だよ。この茂さんの娘さん」

「あ、先生なんだ」

「そう。恩師ってやつ」


“あれ? 何で私、ちょっと安心してるんだろ……。”


 夏斗と千尋の関係が恋愛関連のものではないと知り、澪は不思議とほっとした。

 それから目の前のメニューに視線を落とす。


「夏斗くん、おすすめは?」

「おすすめだってよ、茂さん」

「おうよ、澪ちゃん。うちを田舎の安うどん屋と侮るなかれ。粉から鰹節から昆布から何から何まで、材料は俺が日本各地飛び回って厳選してある。そして何よりも、ここは水が良い。そこに俺の腕が合わさりゃ、どれも最上級に美味くなるってわけよ。つまりおすすめは全部だ」

「これ、おすすめ聞かれた時に茂さんが決まっていうやつね」

「そ、そうなんだ」


 全部おすすめと言われては、より一層どれもこれも食べたくなってくる。

 悩み抜いた末、澪はおろしぶっかけうどんを、夏斗はざるうどんを注文した。


「ちょっとトイレ行ってくる」

「うん」


 夏斗が席を立ち、澪はしばし茂と2人きりになる。

 薬味を刻みながら、茂がぼそっと口を開いた。


「夏斗の友達っていったか」

「は、はい。友達です」

「そっか。まさか夏斗に、田舎に連れて帰ってくるほどの友達ができるとはな。ありがとうよ、澪ちゃん」

「いえ、お礼を言われるようなことは何も」


“笑わねえな、この子。”


 茂がちらっと顔を上げても、澪は入店した時からの無表情を崩さずにいる。

 夏斗と出会う前に比べたら柔らかくはなっているのだが、初対面の茂にとってみれば、冷たく寂し気な印象を抱かせる顔だった。


“あー、そういうことか夏斗。昔のてめえみたいでほっとけなかったんだろ。”


 いつか夏斗が“知り合い”の話だと澪に語って聞かせた話。

 小さな格好つけと照れ隠しで、夏斗はオブラートに包んで話したが、あれは紛れもなく夏斗自身の話である。

 そして茂は、そんな夏斗のことをずっと見守ってきた人間のひとりだった。


「あいつは優しい子だよ。それはもう本当に」


 茂は手を止めて、澪にニカッと笑いかける。


「あいつのこと、よろしくな」

「……はい」


 澪は深く頷く。

“よろしくしてもらってるのは私の方です”と、心の中で応えながら。

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