第8話 夏休み最初の夜に

「さて……」


 夕食、さらに風呂まで終えて、後はもう寝るだけなったところで澪が夏斗をちらっと見る。

 その視線に気づいて、夏斗は慌てて手をぶんぶん横に振った。


「いやいや! 寝ないからね!? 本当に俺はソファーなり、それこそ床だっていいんだから!」

「ダメです」


 まるで、自分は何もおかしなことを言っていないかのように、淡々と澪は言い切る。

 夏斗と寝ることに鼓動は速まっているのだが、下の名前を呼ばれた時のように、それを表に出すことは今はなかった。

 1日のうちに、平静を装うスキルのレベルを上げたのである。

 ただこれは、もっと感情を素直に夏斗に伝えたい澪からすれば、やや不本意なことだった。


「いくらソファーがふかふかでも、やはりベッドとは違うから。寝るための場所で寝ないと、執事としての仕事に支障が出るでしょ? まして床なんてもってのほかだよ」

「でも明日には届くんでしょ? 一晩くらいなら平気だから」

「ダメ。これは執事への命令」


 自分で上下関係はなしの共同生活と言っておきながら、こういう時だけ都合よく執事とお嬢様然とする澪である。

 そして夏斗は夏斗で、どうしてもこの時間にお給料が発生していることを意識せざるを得ない。


「うぐっ……」


 4000円というあまりに高い時給がのしかかった夏斗は、思わず言葉に詰まる。

 その隙を、美しく整った顔を一切崩すことなく澪が攻めた。


「快適な労働環境を提供するのは主人の務め。それに24時間労働の夏斗くんは、お休みするのも仕事なんだよ?」

「で、でも……」


 執事としての理性、そして人間としての理性。

 2つの理性の板挟みにあって、それでも何とか抵抗しようとする夏斗だったが、その腕を澪の冷えた手が掴んだ。


“冷たい……。”

“温かい……。”


 澪は一段と鼓動が速まるのを感じながら、赤くなろうとする頬を見せないように顔を逸らす。

 そして声が上ずらないように注意して、あくまでも冷静ぶって言った。


「命令だから」

「……」


 2人は歩き出す。

 階段を上って左側、澪の部屋がある方へ。


“すごく良い香りがする……。”


 ふわりと揺れる澪の髪からは、甘いシャンプーの香りが漂ってくる。

 夏斗が階段で抱き留めた時よりも、風呂に入って間もない今の方が香りが強い。

 この香りを意識しながら同じベッドで過ごすとなると、夏斗は眠れる気がしなかった。


“逆に寝れなくて明日の仕事に支障をきたすんじゃ……。”


 そう思った夏斗だったが、頭の中に浮かんだ澪が「命令」の2文字を掲げたので、あえて口には出さない。

 そしてとうとう、初めて澪の部屋へと入った。

《氷姫》と呼ばれる無表情で口数の少ない彼女の部屋が、実はものすごくかわいい小物やぬいぐるみ、家具で飾り立てられていた……なんてことはなく、イメージ通りのシンプルな部屋である。

 あくまでも物が少なくごちゃごちゃしていないというだけで、やはりどの家具も高級感があるし、ベッドも十分に広かった。

 ひょっとしたら、3人は余裕で寝転がれるかもしれない。


「今日はいろいろと疲れただろうし、もう寝よ」


 そう言うと、澪は部屋の電気を暗い豆電球にしてベッドに向かう。

 端に腰掛けると、ドアの辺りで固まったままの夏斗を手招きした。


「早く寝るよ。こっち来て」

「……っ」


“もうなるようになれ……! 俺は俺の理性を全うする……!”


 夏斗は心に灯した炎で己の煩悩や葛藤を燃やし尽くすと、澪が待つベッドへと進む。

 そして満足げに横たわった澪から距離を取り、反対の端へ寝転がった。

 今日の昼間に試したベッドと同じように、体をしっかりと支えながらもふわふわと包み込んでくれる快適な寝心地だ。


“寝る……! 寝る……! 寝る……!”


 夏斗は目を閉じると、必死に寝よう寝ようと頑張り始めた。

 その背中を、離れて寝そべる澪が見つめる。


“私はただ夏斗くんの温もりを感じたいだけ……。”


 じっと、ずっと、夏斗が寝るのを待つ澪。

 彼女からしたら一瞬に感じたかもしれないが、夏斗が穏やかな寝息を立て始めたのは1時間ほど後のことだった。

 すすすっと夏斗の方に移動した澪は、そっとその背中に手を触れる。

 指先から、そして手のひらから、じんわりと温かさが伝わってきた。


“もっと……もっと……! あの時みたいに全身で……”


 澪はひとつ深呼吸して、ぴったりと夏斗に寄り添った。


“温かい……。あの時と同じ……。”


 季節は夏。

 それでもクーラーの効いた部屋は、少し寒さを感じるくらいだ。

 それでも夏斗とくっついている場所は、心地よい温かさに包まれた。


“あれ……?”


 ふと、澪の頬を涙が伝う。

 今ちょうど全身で感じているような、温かな涙が。


“なんで……?”


 澪がここまで夏斗に温かさを感じ、本人も説明しきれないほどに深く心がつながっているのには、ちょっとした特別な事情があるのだが……それはまた別の話。

 今の澪からすれば、まるで知るよしもない。

 そして今は穏やかに眠る夏斗もまた、澪のそばにいたいと思う理由を密かに抱えていた。

 ただそれはまだ、恋と呼べるようなものではないのだった。


 恋を自覚していない澪と、まだ恋に落ちてはいない夏斗。

 お互いに想いと事情を心に秘めた2人は、寄り添って夜を明かしたのだった。

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