第3話 1枚目の契約書
「それでは、私は手続きをしてまいりますので」
警備員は一礼すると、部屋から出て行った。
夏斗と霜乃木澪は、2人きりで部屋に残される。
彼女の表情はすんと澄ました無表情のまま変わらず、まるで感情が読み取れない。
それでも、採用されたからには悪く思われていないはずだと考え、夏斗は勇気を出して声を掛けた。
「さっきの警備員さんなんだけど」
「錦戸さんのことですか?」
「錦戸さんっていうんだ。あの人がいるのに、執事が必要なのかなと思っちゃったんだけど……」
「必要ありません」
「ええ……」
いきなりの戦力外通告に、ショックを受ける夏斗。
そのガーンとした表情を見て、霜乃木澪の平坦な口調が少し乱れる。
「そ、その、長屋くんが必要ないというわけじゃ。そもそも、錦戸さんは普段はいなくて、こういうあらかじめ来客があると分かっている時だけ来るので。ただ私も身の回りのことは自分でできますから、やっぱり執事は必要ないんですけど……」
「そういえば、募集を出したのも霜乃木さんじゃないって言ってたっけ?」
「はい。おそらく、私のおばあ様がお出しになったんだと思います。私はついさっきになって、このことを聞かされたので」
“超豪邸で自分のばあちゃんをおばあ様呼びか……。どうやら霜乃木さんの家がすごくお金持ちってのは、ただの噂じゃなさそうだな。”
かなりの財力を持っていることは簡単に察することができた夏斗だったが、あえてそのことを口にすることはなかった。
何となく、本当に勘でしかないが、霜乃木澪が嫌がりそうな気がしたのだ。
結果的にそれは正解だったのだが。
「長屋くん」
霜乃木澪は夏斗の名前を呼び、まっすぐにその目を見つめる。
夏斗は一体何を言い渡されるんだろうと、少し身構えた。
これだけの家の執事になるのだから、きっと厳しいマナーやルールがあるに違いない。
そう思って耳を傾けた夏斗だったが、霜乃木澪はやや上ずった声で意外なことを口走った。
「そのっ……名前を、名前をお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「名前……?」
「はい。親しい友人同士では、下の名前を呼び合っていることが多いように思います。せっかく夏を共に過ごすのですから、下の名前をお呼びできればと……ダメ、でしょうか?」
本当にわずかではあるが声が高くなっているし、目も少しだけ泳いでいる。
そのわずかな変化に気付き、夏斗はふと思った。
もしかして彼女はぶっきらぼうとか無愛想の類ではなく、ただ感情表現が苦手で人見知りなだけなんじゃないか、と。
実際、霜乃木澪が《氷姫》となった要因には、感情表現が苦手ということが関係している。
ただし、彼女が冷たくなった事情はひとつだけではないのだが。
当然、《氷姫》が生まれた事情を知るはずもない夏斗だったが、下の名前で呼んでいいかという質問には即答でOKした。
「もちろん。俺はなんて呼んだらいい?」
「澪で構いません。確かに私が雇用主で、長屋……じゃなくて、な、な、夏斗くんが執事という形ではありますが、変な上下関係はなしにしましょう。あくまでも共同生活ということで、かしこまるのは禁止です」
「2人で共同生活って結婚生活みたいになっちゃうんじゃ……」
「け、結婚……!」
今日一番、澪の声が高くなる。
つい思ったことを口に出してしまったと、夏斗は慌てて訂正した。
「な、何でもない! ごめん! 変なこと言って!」
「いえ、大丈夫です。大丈夫ですから、大丈夫です」
「ごめん。あ、かしこまるのを禁止にするなら、敬語も禁止にしない? ほら、俺たちって同級生なわけだし」
「け、敬語を禁止ですか……」
「ああ、もちろん無理はしなくていいけど」
「いえ、頑張りま……頑張る……ね?」
語尾を上げると同時に、澪は小さく首を傾げる。
表情は相変わらず変わらないが、むしろそれがかわいい仕草とのギャップを生み出した。
“きれいというか、かわいいというか……。本当に素敵な顔立ちだよな……。”
夏斗が思わず見とれていると、澪が少し視線を下に向けて呟く。
「……さい」
「ごめん、聞こえなかった」
夏斗が聞き返すと、澪の視線はさらに下を向く。
それでもさっきよりは聞こえる声で、もう一度、口を開いた。
「呼んでくださ……呼んで?」
「呼ぶって……何を?」
「名前。私は頑張って1回夏斗くんって呼んだから。でもまだ、私は呼ばれてない」
「あー、えっと、改まって言うのも何か恥ずかしいな」
夏斗は澪から視線を外すと、照れたように頭をかく。
それでも意を決して彼女の方へ向き直ると、まっすぐにその名前を呼んだ。
「澪」
「……っ!」
澪は思わずくるりと反転して、夏斗に背中を向ける。
“何で名前を呼ばれただけなのに、こんなに胸がぽかぽかするの……。”
「あの……澪?」
「こっち向いちゃダメ。執事でしょ、命令だよ」
「ええ……。さっき上下関係はないって……」
“顔が熱い。今はまだ、こんな顔見せられないよ。恥ずかしくて。”
澪は胸を満たす温かさを残しながら、必死に顔だけは冷まそうとする。
ただし、夏斗に背を向けたということはドアの方を向いたということ。
そして運悪く、警備員の女性こと錦戸さんが入ってきてしまった。
彼女は顔を赤くして、胸のあたりに手を当て夏斗に背を向ける澪を見て勘づく。
そしてごくごく小さな声で呟く。
「なるほど。お嬢様が採用した理由が、何となく分かりました」
「錦戸さん? 何か言いましたか?」
「いえ、何でもありません」
“お嬢様が自覚してるかは知りませんが、完全に恋しちゃってますねこれは。”
これ以上は声に出すまいと心の中にしまいこみ、錦戸は夏斗に1枚の紙を差し出す。
「契約書です。ご確認いただいて、問題がなければサインを」
「分かりました」
夏斗は上から下までしっかり契約書を読み、そして丁寧な字でサインをする。
そしてその横には、雇用者として澪のサインも書き添えられた。
この雇用契約書が、この先2人で作る何枚かの契約書のうち、記念すべき1枚目となったのだった。
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