そのカレーは甘口ですか? 辛口ですか?

三毛猫マヤ

そのカレーは甘口ですか? 辛口ですか?

 そろそろかな……。

 腕時計を確認し、帽子を手に立ち上がる。


「それじゃ、立番りつばんきますね」

「おう」


 書類に視線を落とした先輩のぶっきらぼうな返事を聞きながら、建付たてつけの悪くなった引戸を軽く持ち上げながら開く。


 朝七時の駅前交番――通学通勤に駅を利用する学生や会社員、様々な人々がせかせかと行き交っている。

 あくびをかみ殺しつつ、時折ときおり見知った顔を見かけるとあいさつを交わす。

 そして今日もまたいつもの足音が聞こえる。

 駅の階段を駆け降りてきた女の子が私の元へまっしぐらに向かって来る。


「おっはよー、ゆーちゃん! こんなところで再会できるなんてこれって偶然ぐうぜん? 必然ひつぜん? やっぱり私たちは太古の時代から運命の赤い糸で結ばれているんだね! どうする? 結婚しちゃう? しちゃうよねっ!! ほらここ。ここにサインするだけ! 大丈夫! あとの記載事項は私がしっかり書いておいたからさ! サインがメンドーならポリスメイトの印鑑いんかんでも可!」

「のっけからウザがらみやめいっ!! こっちは当直明けでつかれてるのよ。そもそもあなたは私のシフト覚えてるんだから、赤い糸も何もないでしょうに! というかどこからそんな婚姻届持って来たのよ。て、こうしている間にも胸ポケットからポリスメイト抜き取ろうとしてるんじゃないわよ!」

「当直明けでつかれてるのに、私のウザがらみをすべて返してくれるなんて! これぞ愛の力ってやつ? もう結婚する未来しかな……いったぁ!! なんでいきなり斜め四十五度で頭に手刀を振り下ろしてくるのよ!」

「いや、父親が独身時代に買ったテレビとかが調子悪くなったときによくこれで直してたって聞いたからさ」

「ちょいちょい! それって何十年前の話? 今はもう令和でゆーちゃんも私も平成生まれでしょ! そんな昔の家電と一緒にしないでよね。それに、そもそも私は故障バグってないから!」

「はいはい、バス来てるわよ」


 バス停を指し示してやる。


「へ? ほんとだ! じゃ、行ってくるね! ゆーちゃん♪」


 空が私へ向け手のひらをかかげる。

 いつもわしているハイタッチ。

 しかし私はジト目で警戒けいかいの色を浮かべる。


「な、なんでそんなイヤそうな顔するかなぁ」

「それはあなたが前科持ちだからでしょーが。自分の胸にいてみなさいよ」

「胸? うーん……はっ?! すごいどきどきしてる! これって恋?」

「あほ! この前あなたがハイタッチするフリをして私の胸にさわってきたんじゃないの! 忘れたとは言わせないわよっ!! 本当なら腕をひねり上げて公務執行妨害こうむしっこうぼうがい痴漢ちかんの現行犯で逮捕たいほしてやるところなんだからねっ!!」


 そう、空は以前、私にハイタッチならぬをしてきたのだった。


「ふふ、ゆーちゃんになら逮捕たいほされてもいいよ? 責任取ってくれるならね」

「責任取るのはあなたのほうでしょ」

「まあまあ、てゆーかさ、ハイタッチもパイタッチもわずかかな違いよ。言うなれば小説のささいな誤字レベル」

「んなわけあるかーい。青春小説モノで男同士がそんなのしたら一気にそっち系の小説に変わっちゃうわよ!」

「何かびみょーにリアリティーのある例えだなぁ。でもそれいいね! 面白そう♪ ちゅーかゆーちゃん。その件に関してはこの前『猫喫茶~猫日和~《にゃんころび》』でスカイタワーパフェをおごってあげたじゃないの」

「むぐ……ゆ、許したって言っても前科は消えないんだからね」

「うぅっ、そんなぁ……」

「こら、駅前でうそ泣きしようとするな」


 すかさず指摘してきすると、てへぺろしながら「バレたか」とつぶやく。


「何年の付き合いだと思ってるのよ、あんたのパターンなんてお見通しだわ」

「え? 愛?」 

「ふん!」

「……あぶなっ! 手刀やめて!」

「ほら、いーかげんにしないとほんとバス行っちゃうわよ」

「うわぁ、そうだった! ほらほら! 早く早く!!」


 空がかかげた両手をピコピコとスナップまで無駄むだにきかせていて、うさぎみたいでウサ可愛い。

 


 ため息をつくと仕方なく手を上げて、まばたきを――……むに。


「こらあぁっ!」 


 今度は触るどころかまれていた。


「じゃ、またねーゆーちゃん♪」


 スカートめくりを喜ぶ少年みたいないい笑顔を残して去って行った。

 

 背後から音がして先輩が頭をかきながら出てきた。


「まったく、朝から元気なヤツらだな」

「あ、先輩。ほんとですよ、こっちは当直明けでヘトヘトだっていうのに……困ったもんですよ」


 やれやれと苦笑する私に先輩があきれながら言った。


「いや、お前も大概たいがいだからな。というかお前らちまたでは駅前交番の漫才姉妹まんざいしまいってことでちょっと有名になってるぞ」

「ええっ?! ていうか空とは幼なじみであって、姉妹じゃないんですけど!」

「突っ込みどころそこかよ! ま、どーでもいーけどよ。それはいいとして、そろそろ交代の勤務員が来るから業務日誌のまとめやっといてくれ。ちょっと裏で煙草たばこ吸ってくるわ」

「またですか? この前奥さんに止められてるって言われてませんでしたっけ?」

「いーんだよ。これは俺の精神安定剤みたいなもんなんだからよ」

「もう少しまともな精神安定剤はないんですか?」

「んーパチスロと競馬……て、なんだよ、その視線は」

「いえ、何でもないです。さーて、勤務日誌をちゃっちゃと片付けてきまーす」


 もうなにも言うまいとさっさと交番へと引き返した。











          **  


「ふふ、ユウリはほんとおいしそうにご飯を食べるわね」

「うん! おかーさんのごはんはせかいいちだもん!」

「ありがとう。じゃあ、お母さんのニンジンもあげるね!」

「おとーさーん、おかーさんがまたにがてなものいれようとするー」

「まったく、困った母さんだなぁ……」    








 ――夢を見た。自分がまだ年端としはもいかない女の子だった頃、それは当たり前の日常で、いつまで続くものだと思っていた。

 でも、どんな出来事もいつかは終わりをむかえる。

 そうして失われて初めて、その意味を知るのだった……。

 小さなあくびをして、目尻めじりに残っていた涙をぬぐい、のそのそと布団から抜け出した。











          **          


 リビングに入ると、セーラー服にエプロン姿の空がキッチンに立っていた。


「おはよう、ゆーちゃん♪」

「……」


 黙って彼女の横に立ち、肩に寄り掛かる。


「おっとと、ちょいちょい! 今火を使ってるから危ないよ~」


 やんわりと注意されたのもかまわず、そのまま彼女の肩に手を回してぎゅっとする。


「どしたん? 今日は甘えんぼさんモードなん?」


 コンロの火を切ってこちらへ向き直る空が、やわらかな笑みをたたえている。

 中学二年の頃、母親と死別していた私は、時折ときおり彼女に母性を求めてしまうことがあった。

 

 年下の彼女に幼子のような態度をしてしまう自身をじ入りながらも、甘えたいという気持ちはおそえられなかった。


 開かれた腕に包まれると、不思議と気持ちがしんとして、落ち着くのだった。




 そこは私にとっての【まほろば】だった。




 彼女がぎゅっとする強めのハグは、生前の母親が私にしてくれたものに似ていた。

 痛いくらいのハグは、それだけ私のことを大切に思っているよというメッセージが含まれている気がして――胸の辺りがじんわりとあたたかなもので満たされるのだった。

 気持ちが落ち着くと同時に睡魔すいまがすり寄って来て、くぁっと小さなあくびが出る。 


「あはは、まだ眠そうだねぇ」

「んー、まだ十時間は寝られそう」

「ゆーちゃんの前世ぜんせは猫なのかな? ゆー猫可愛い♪ 欲しい♪ あーでもでも! 今のゆーちゃんも、もちろん愛してるぜっ!」


 相変わらずのハイテンションぶりだった。睡魔すいまと戦う私に今そんな余力よりょくはないぞ。


「……無反応かーい! ま、いーや。ほら、今日はゆーちゃんの好きなカレーだよ」 

「ほんと? 私も空のこと愛してるよん♪」

「げんきんだなぁ。ま、そーいう分かりやすいところも可愛いけどね」

「とか言ってクールぶってるわりにほおをニヨニヨさせる空なのであった、まる」

「ニヨニヨしてねーし!」


 空の頭をでながら「ありがと」と短いお礼を伝え、シャワーを浴びるためにリビングを後にする。


 ドアノブに手を掛けると名前を呼ばれて振り返った。

 そこにはわずかにほおを染めた空が微笑ほほえんでいた。


「今日もお疲れさま」


 笑顔でうなずいてドアを閉めた。 











          ** 

         

 テーブルに向かい合ってカレーを食べる。

 なつかしいにおいと味に自然、口元がゆるむ。

 お母さんがカレーを作る時にいつも使っていたルウだった。

 視線を感じて顔を上げると、空が頬杖ほおづえを付きながらニヨニヨしている。


「ほんとゆーちゃんはおいしそうにカレーを食べるよね♪」

「わ、悪い?」


 「子供みたいだね」と指摘してきされたようで、恥ずかしさをごまかすためにムスッとする。


「可愛いなぁ、えるなぁ、ハグしてもふもふしたいなぁってね♪」

脳内のうない欲望よくぼう駄々漏だだもれですけど……最後の二つはさっき私の髪をドライヤーでかわかしたときにしてきたでしょ」

「いやー、そうなんだけどさぁ、不思議だよねー。何度ハグしてもまたすぐしたくなっちゃうんだよね。なぜだか分かる?」

「知らないわよ……っていうか、そーいう話って普通本人の面前めんぜんで言うものではないと思うのだけど?」

「まあそれだけ私のゆーちゃんへの愛があふれているって事かな? かな?」


 話を聞いちゃいない。

 これだから亥年いのししどしのB型は(偏見へんけん)! 聞いてるほうが恥ずかしくなる。

 ほおに熱が集まるのを自覚しながら非難ひなんめいた視線を向けると、意地悪な笑みを浮かべていることに気付いた。

 むぅ……鉄拳制裁てっけんせいさい


「いった! 手刀禁止~! もう、ゆーちゃんは昔から都合が悪くなるとすぐ暴力にうったえるんだから」

「わかっていてそれをやるあなたはもう少し学習したほうがいいんじゃない?」

「それは無理! だってゆーちゃんの反応がいちいち可愛いんだもん……」

「か、かわ……わ、私より、あなたのほうが可愛いでしょ!」

「うぇ……そ、そんなわけないよ。わ、私なんか、ガサツでいい加減だし、バカみたいな事ばかり言ってるし……」


 バカな事言ってる自覚はあったのね……。

 ……というか、今更いまさらながらけっこう恥ずかしい話をしている事に気付いた。

 空をちらりと見る。

 ビクッ! ササッ……。

 視線が重なり、すぐにらされてしまう。いや、あなたから振ってきたんじゃないんかい!


「……」

「……」


 気まずい沈黙ちんもくの後――ぐうううぅ……。

 どちらからともなくお腹の音がした。


「と、取りあえずカレー、食べちゃおっか」

「う、うん……」


 先程さきほどまでとは打って変わり、黙々もくもくとカレーを食べるのだった。









          **   


 夕飯を終えて、空がお風呂に入っている間に洗い物を済ませると、私の部屋で飼い猫よろしくごろごろタイムを過ごす。


「ねね、明日はお休み取ってくれたんだよね?」

「もちろん。明日は空の誕生日だからね」

「へへ、やったー」


 ほおを染めながらニコニコする彼女にこちらまで気持ちが明るくなる。


「行きたいところとか、欲しいものは決まったの?」

「んー、ケーキを買っておうちで二人、のーんびりイチャイチャするのもいいかな」

「昨年もそんな感じじゃなかったかしら?」

「あーそうかもー」

「せっかくのお休みなのに……」

「えー、でもさでもさ! そういう二人だけの時間とか、イチャイチャする時間とか、それはそれで大切だと思うなぁ、私は」

「ふむ……」

 イチャイチャは置いとくとして、まあ、気持ちは分からないでもないかな。

 いや、嫌いじゃないけどさ、イチャイチャするのも。


 母親と過ごした何気ない日常は今の私にとって大切な思い出のひとつだから。


「そ、それに……一年に一度、誕生日くらいは、ユウリのこと、一日中独り占めしたいなって……」


 指先をいじいじしながら、こちらをちろりと見詰めてくる。

 うぐっ、何よその可愛いしぐさは、いつものウザい部分はどこに行ったのよ。


「へ、へー、そ、そう……なんだ」

「ダメ……かな?」

「ううん。まあ、良いんじゃないかなー。私も付き合うから、空の過ごしたいようにしなよ」

「うん、ありがと」


 空がほっとしたように胸をで下ろす。


 壁掛け時計が鳴った。

 午前零時ごぜんれいじ。十五歳から十六歳に――少女こどもから女性おとなに変わる瞬間だった。




 二年前の今日、空に告白された時、私はある約束を下に付き合う事を了承りょうしょうしていた。




 あなたが十六歳おとなになるまで、ハグしかしない。それでも良ければ付き合おう――。




 当時私は十八歳で、警察官の進路が決まったばかりだった。

 もちろん、彼女の事を信頼していない訳ではない。

 ただ、これから警察という組織に入って法のもと職務しょくむ執行しっこうする人間が未成年の女の子に手を出したと知られた場合、私のみならず組織にも迷惑をかけることになる。


 ハグであれば、例え見られたとしても幼なじみ同士でのスキンシップの一つと言い逃れが出来ると思ったからだ。



 それから二年後の今日、私は二十歳になり、空は十六歳になった。




「……二年、ったね……」

「うん、待たせちゃってごめん。それと、ありがとう」

「ううん」

「……」

「……」


 お互いに見詰め合い、愛想笑いを浮かべ、何となく視線をらしてしまう。


 うう、胸がモヤモヤする。

 いっそ、いつもの空の軽いノリで「ね、キスしようよっ!」とか言ってくれたらどんなに楽だろう。

 いや、ここは私が言うべきだろう。

 二年間も彼女にお預けをさせてしまったのだから。

 うぅ……でも、どうやって声を掛けよう。

「ね、チューしよう?」とか? 

 アホか、ストレート過ぎでしょ!

 というか何よ、その恥ずかしいセリフ!  

 あ、でも熱中症と勘違いしてくれれば、サプライズ的な感じに……いや、何か思考が空みたいになってるぞ、私。なしなし! 


 考え込んでいると、空が私の小指をきゅっとにぎってくる。

 

 相手の小指をにぎる――それは私と彼女の間で決めているサインだった。


   ――ねぇ、甘えてもいい?――


 彼女に向けて両手を開くと、空が私の胸に体を寄せる。

 そっと抱きしめるとそのまま髪をもふもふとでる。

 しばらくすると、彼女の硬化こうかした肩がゆるむのが分かる。

 安堵あんどの息をついた空が、おずおずと口を開いた。

 

「その……今日から私もお、大人の仲間入りしたし、お、お祝い……とか……ほ、欲しい……なぁ~~とか、お、思っちゃったり、してるわけでして……」

 

 普段、堂々とした物言いで人のことをからかったり、ウザがらみするくせに、いざ真剣に想いを伝えようとする空は、借りてきた猫が初めてケージから一歩を踏み出すかのようにひかえめだった。


 でも、だからこそ――純粋じゅんすいで混じりけのない本心なのだろう。

 私もその気持ちに真剣に応えたい。


 ハグをいて彼女と向かい合うと意外にも言葉はするりと出てきた。


「キス……しよっか」

「へ? え、ええっ?!」

「ごめん、イヤ……だったかな?」

「イヤ……ではないけど、その……き、急だったから……」

「そうかな? だって、空はずっとこの日を待っていてくれたんだよね。二年間、キスをしたいのに私のために我慢がまんし続けてきたんだよね。私のことを夜とかに思い出して、ユウリとキスしたいなぁ。早く二年過ぎないかなあって、待っていたんだよね。時折ときおりカレンダーを見詰めてため息を吐ついたりしてさ」

「ちょ……な、何で、まるで見てきたように、つらつらつらつらと的確てきかくに私の想いや行動を言い当てられるのよ?」


 ほおを真っ赤に染めた空が恥ずかしそうにうなっている。 

 空、あなたはきっと、私がこう応えると思っているんでしょう?


「あなたと何年一緒に過ごして来たと思ってるの?」と。


 それは今までに何度となく繰り返されてきたやり取り。

 それも一つの答えだけど、それでは私の気持ちを伝えるには言葉が足りない。





 

「私もさ、そ、空と同じ気持ち……だったのよ……」






 空がきょとんとした後、「あ……うぅ」と耳までまっ赤に染めるとうつむいてしまう。

 もう、いちいち反応が可愛いなぁ。本当、いつもの調子はどうしちゃったのだろう。

 あるいは、これが空の素の姿ということなのかな。


 普段ウザいけど可愛い彼女からウザいを取ってみる……






 可愛いが過ぎる私の彼女とか、マジ天使♪






 うん、ヤバいな。天使過ぎる彼女も、今の私の思考回路も。


「ど、どうかした?」


 急に黙り込んだ私に、こてんと小首をかしげた空が不思議そうな表情で見詰めてくる。

 だから、何でそんなにナチュラルに可愛いしぐさを見せつけてくるのか。

 思わず彼女を抱きしめていた。


「ゆ、ユウリ?」


 ヤバ、意識し過ぎて顔が見れない。ほおが上気しているのが分かる。

 のどがかわいてつばを飲み込むと一気にまくし立てた。


「もう。空が悪いんだよ。普段ふざけてるくせにさ、何で急にこんな時ばかり女の子になっちゃうのさ! そんな姿を見せられたら、私の理性がもたないよ」

「……ない、じゃん」

「え?」

「そ、そんなの……仕方ないじゃん。わ、私だって、す、好きな人と二人きりでいたらドキドキだってするよ。それに、き、今日は……私にとって、ユウリと結ばれる、た、大切な日……なんだもん……意識しないほうが無理……」

「結ばれる?」

「あ、いや、その、か、勘違かんちがいしないでよねっ! 結ばれるっていうのは、え、えっちな意味じゃなくて……その……」

「ふーん。じゃあ、どーいう意味なの? くわしく♪」


 まじまじと見詰められていることに気付いた空があわてて顔を背けながらぽしょぽしょと続ける。


「え、と。だ、だから……そ、その……」

 

 髪の間からちろりと見え隠れする耳は熱せられたように赤くつややかにいろどられていて、聖書で蛇にそそのかされて口にするあの果実を私に想起そうきさせた。

 我慢がまんできず、彼女の耳元にそっと口を寄せてささやいた。


「空、目を閉じて」

「あ……は、はい……」


 ピシッと背筋を伸ばしてて、きゅっとつむる瞳はふるふるとふるえていた。

 緊張きんちょうのために体が強張こわばっているのが分かる。

 

 やっぱり、初めて……なのかな?

 私のせいで二年間も待たせてしまったことに申し訳ない気持ちになる。


 髪をひとでするとあごをくっとわずかに上向うわむきにする。



 ごめん――それと、ありがとう。



 謝罪しゃざいと感謝の気持ちを込めて、魅惑みわくの果実に口を寄せると、甘い吐息といき柑橘類かんきつるいかおりが鼻腔びこうをくすぐった。

 薄いペールピンクに塗られたリップに胸がきゅんと高鳴る。

 私、これからこの小さな唇に、キス、しちゃうんだ。

 



 目を閉じて唇を寄せる――ふにっとしたやさしい感触と共にお互いの熱を共有した。

 



 キスを終えた空は緊張きんちょうの糸が切れたのか、私の肩に寄りかかってきた。




「へへ、ファーストキス、しちゃった……」




 そこにはやわらかな音と親密しんみつひびきが含まれていた。

 



「空、今までありがとう。そして、これからもよろしくね♪」

「うん。ユウリ、大好きだよ♪」


 空がぎゅうっとハグしてくる。

 ふわふわした空の髪をすくようにでると、うれしそうにすり寄ってくる。


「はは、空、何か猫みたい」

「……に、にゃあ♪」


 ご機嫌な空が照れ臭そうに、手を猫みたいにかかげて鳴き真似をする。空猫可愛い♪ ヤバい、空猫飼いたい。愛でたい。

 ……何か、私も空とあんまり思考が変わらないなぁと思ったのだった。











          **


 先輩が私の鎖骨さこつの上にあるばんそうこうを指差してたずねてくる。


「どーしたんだ、それ?」

「これですか? 当直明けの日にすごく疲れたので、飼い猫のシエロちゃんにぎゅうぎゅう抱きついたらウザかったのか、引っかかれちゃいまして」

「あー、猫ってしつこくからんでると時々ガチで引っかいてくるよなー。うちの大福ふくちゃんもよー……」


 先輩が目元をゆるめてスマホを片手にこちらへ寄ってくる。






 先輩ごめんね、私、本当は猫なんて飼ってないんですよ。

 ばんそうこうの下には、私と空が晴れて大人の恋人同士となった証、二人だけの秘密キスマークが残っている……。






「それじゃ、立番にきます」

「おう、よろしくな!」




 朝の駅前交番に立つ。

 いつもの時間、変わらない景色。

 たいくつな日々と言う人もいるだろう。

 でも、私はこの時間が好きだ。


 いつか思い出した時、こんなささやかな日常こそがとうといものであったと、そう思える日が来ると私は信じている。

 何故なぜなら……。     






     「おはよ、ゆーちゃん♪」     






    やさしい声がこえる。    







 

 さて、今日はどんなウザがらみをされるのやら。そう思い。

 自然、ゆるみ始めたほおのまま振り向くと、最愛の人の名をつむぐ――。








      「おはよう、空……」      











          **











 コンコン……。






 ひかえめにドアがノックされた……気がした。

 あるいはそれは、私の幻聴げんちょうなのかも知れなかった。

 数日前、私は大切な家族を失っていた。

 それからほとんどの時間を自室に引きこもって過ごしている。

 スマホの電源を切り、誰とも会わず、来客を告げるインターホンにも出なかった。

 毎朝、辛抱しんぼう強く呼びける父親にもほとんど反応しなかった。

 父の業務は多忙たぼうなため、ほとんどの場合、声掛けをするとコンビニ弁当などをドアの前に置いて去っていく。







 コンコン……。






 間違いない、何度目かのノックが聞こえる。

 私は布団をかぶったまま、顔だけを出して、ドアを見詰める。

 父親が外出していたため、ドアに施錠せじょうはしていなかった。






「し、しつれい……しまーす」






 ドアがゆっくりと開かれる。

 そろそろと開かれたドアの隙間すきまから、おそるおそる少女が顔をのぞかせる。

 私と視線が合うと、少女が目を見開いてびくんとした。

 返事がなかったから眠っていると思ったのだろう。先程さきほどひかえめな声音からもそれはうかがえた。


「あ……」


 口元に手を当てて、固まる少女の瞳に小さな光をた――光はしずくとなり、目尻めじりから音もなく流れ落ちた。






「そら……ちゃん?」






 久しぶりに発した言葉は、かすれていて、うまく出て来なかった。

 それでも、涙をぬぐった彼女はうれしそうに笑いかけてくれた。






「おはよう……ゆーちゃん」

「あ、あの……わ、わた……し……」






 何から伝えればいいのか分からなかった。

 急に頭が働き始めたからか、にぶい痛みをうったえるばかりで全然考えがまとまらない。

 布団から起き出して一歩をみ出す。 

 とたんにふらついてしまい、とどまるとお腹に力を込めたとき――




        きゅるるる。        




 私のお腹が鳴った。

 とっさにお腹を押さえて彼女を見た。

 ぽかんと私を見詰めた後、彼女がうれしそうに言った。




「ゆーちゃんあのね、空、今日学校の調理実習でごはん作ったんだ。一緒に作ってくれるかな?」

「あ……うん」

「ありがとー」

「それで、何を作るの?」

「ふふ、それはねぇ……」











         終わり

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