第1話 キーアンの帰還
四角い灰色の石畳を敷き詰めた道が、オレンジの屋根の家々の間に伸びている。家の壁は、ランダムな大きさの石を敷き詰めた、この地方特有の模様だ。家々の間には針葉樹がまばらに生えており、樹々と家の間から夕日が差し込んでいた。
私の右手には、ずしりと重たい、革表紙の大きな絵本。父からもらったものだ。
年に数回の収穫期の後、村の男たちは貿易港のある王都コルディエに行く。父はコルディエに行く度、まだ小さい私のために絵本を買ってきてくれたのだった。
成長してしまった私の部屋の本棚の片隅で、埃をかぶっていた物語の数々。
もったいないので村の子供たちに読み聞かせを始めたところ、今では週に一度のイベントとして定着してきていた。
遠い国のラブロマンスに、心躍る冒険譚。
小さい頃の私にとっては、この革表紙の中の世界が憧れだった。
「ま、今は現実をわきまえているけど」
誰に言うでもなく、つぶやく。
私は普通の村に生まれた、普通の女の子。村で過ごす平穏な人生、それが幸せに違いないのだ。
3つ目の分岐で、私は右に曲がった。道の右手に、2軒の家が近接して建っている。奥が私の家だ。ちょうど手前の家を通りかかったときに、自分の母親と同じくらいの年の女性が、木の戸を押して出てきた。
「おばさん、こんにちは」
私は声をかけた。
女性は沈痛な面持ちで、この1か月の間に皺が増えたようだった。しかし私が声をかけると、すぐにパッと明るい表情を浮かべた。
「あら、ロナちゃん。今日も読み聞かせ?立派だねえ」
「いえ、そんな…」
「うちのキーアンは、どこをほっつき歩いているのやら」
私は何も言えなかった。
この女性の息子であるキーアンは、1か月前に姿を消したきり行方不明なのだ。
「ま、あのバカ息子のことだから、そのうちひょっこり帰って来るでしょう。
そうしたら、ロナちゃんも歓迎してあげてね」
楽観的な言葉とは裏腹に、おばさんの目は暗く沈んでいる。
「帰ってきますよ、きっと」
それが、私に言える精一杯だった。
「ただいまー」
「あら、ロナ。おかえり」
木の戸を開けると、ちょうど母が火をおこしているところだった。
「お母さん、何かすることある?」
物音を聞きつけて、軽快な足音を立てながら、妹のケイトリンが2階から降りてきた。
「姉さま、おかえりなさい!ケイトリンもお手伝いするわ!」
ケイトリンはまだ7歳ながら、とてもしっかりしている。肩までのブロンドの髪をツインテールに結った、角のようなシルエットが特徴的だ。
「ケイトリン、この本を2階の本棚に戻してくれる?」
「もちろんよ」
ケイトリンはずっしりと重たい本を抱えて、それでも軽々と階段を昇って行った。
「あんたは玉ねぎをむいてくれるかい?」
私は頷くと、壁に埋め込まれたレンガ造りの釜戸の向かいにある机の上で、玉ねぎをむき始めた。後ろでパチパチという音が大きくなる。火が安定したようだ。
母が私に顔を近づけ、ひそひそと話しかける。
「お隣のグリフィスさんち、かわいそうにねえ……。18歳のちょうど働き盛りで、お嫁さん探しも張り切っていたところだったのに」
お嫁さん探し、というワードにドキリとしながら、「へえ」と相槌を打つ。
「あんたも、ちょっと若いけど、いいんじゃないかと奥さんと話していたところだったんだよ」
「へあえ!!??」
予想外のことに、思わず素っ頓狂な声が出る。
「声が大きい!!」
ひそひそ声のままどうしたらそんなに大きな声がでるのか、という声量で、
母は私の頭をはたく。理不尽だ。
「村の外側の畑に出ている村の男たちによれば、最近は村のすぐ外まで魔物が来るというし。少し前にあった大きな地殻変動以来、テンセーシャとかいう、見た目は人間そっくりの不届きものの輩もうろついていて、物騒だと聞くもの。1か月も帰ってこないってことは…」
最後の言葉を、母は濁した。
キーアンは、私の4つ年上の男の子だ。栗色のツンツンとした髪の毛に、
大きな明るい緑色の瞳は、いつも微笑んでいるように目じりが下がっていた。
小さい頃から口数は少なかったが、それでも家が隣のこともあり、私がまだ幼い頃にはよく遊んでいた。線の細い、優しい、でも芯の強い男の子。
やがて成長してキーアンの背が高くなり、声も低くなってからは、急にお互いよそよそしくなってしまった。
私は村の他の女の子といることが増え、キーアンはたまに、知らない男の子と村の外に出かけたりしているようだった。
村の筋肉自慢と並ぶと華奢だが、ほどよく引き締まった体とすっとした目鼻立ちから、周りの女の子の中には、キーアンに恋愛感情を持っている子もいた。
「ほら、手が止まってるよ!」
ハッと我に返る。
「全く、ぼーっとした子なんだから…」
母はブツブツ言っている。
「姉さまはぼーっとしてるんだから…」
2階から階段に顔を出して、ケイトリンがマネする。
どうしたら母のように気持ちを切り替えられるのか、私にはよく分からなかった。そのうち分かるのだろうか。
にわかに外が騒がしくなった。先ほど読み聞かせしていた広場の方向だろうか。
「なんだろう…あんた、行って見てきたら?」
母に言われるまま、私は家を出た。石畳の道を抜けると、大人がギリギリ跨ぐことができるかどうか、絶妙な太さの小川がある。小川の両側には背の低い草と、風に揺れる紫とピンクの小さな花。渡りやすいように、小川には木でできた橋が架かっている。橋の先はすぐに広場だ。
広場の中央から数メートルにわたっては灰色の石が敷き詰められていて、広場の端には、先ほど読み聞かせをしていた大きな木が一本。その反対の端には、主に村の男たちの憩いの場となっている酒場がある。
広場の中央に数人が集まっていた。人だかりの中心には、明らかに周囲の人とは異なる格好をした3人の男女。
黒髪をポニーテールにし、黒のピッタリとした服に茜色の風変りな前合わせの羽織を着た小柄な女の子が、中年の女性数人に声を掛けている。
その横には、背が高くてガタイが良く、ライオンのたてがみのような赤味がかった茶色の髪を無造作に流した男性が、退屈そうに隣の男性に話かけていた。
その隣の男性を見て、私は一瞬息が止まりそうになった。
短くツンツンと横にはねる栗色の髪。緑色の瞳。恰好こそ以前とは全く違うが―――
「キーアン!?」
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