第4話 ドキドキ♡ ひみつ実験

 実験の準備は秘密裏に進められた。

 本来なら臨床試験は大学病院と連携して行わなければならないのだが、京一郎の個人的な実験ではそうもいかず、研究室の持っている実験室のどこかで行うしかない。

 大嶋研究室は大嶋教授の教授部屋、京一郎の準教授部屋、香澄らの入っている助手部屋、秘書がつめている秘書室、大学院生や大学生が集団で入室しているいくつかの学生部屋、会議室、給湯室、それに加えて複数の実験室などで構成されており、大学の校舎一棟の最上階すべてを占有している比較的大きな規模の研究室だ。

 幸いなことに実験室はそのすべてが常時使われているわけではない。

 しかも学生が使うスケジュールはすでに一か月単位で決まっているので三日後に使われない実験室で、特に人が寄り付かない場所を選べば良いだけだ。

 ちょうど物置的に使われている部屋がこの条件に当てはまっていた。

 しかし場所よりも問題は人間の方だ。

 教授に決して知られてはならない実験であるため、人払いには慎重に慎重を期さなければいけなかった。

 大嶋教授自身はいつも定時で帰宅するから特に考慮に入れなくてもよいのだが、研究室に所属する学生らに知られ、そこから教授へと情報が漏れてしまったら意味がない。

 実験中の学生は実験にかかりきりでそこから動くことはあまりないのだが、それ以外の多くの学生は学生部屋で個人的な活動をしており、どう動くか非常に予想が立てづらい。

 だからそれらの学生も何らかの方法で足止めしておく必要があった。

 だが、こういうときの対処法を京一郎はよく熟知していたのだ。

 そいつらには何本か酒類を差し入れればいい、と。

 学生とは手元に酒があれば会議室などの適当な部屋で勝手に酒盛りを始める、そういう生態の生き物なのだ。

 これは京一郎の経験則である。

 あとは実験器具の用意だった。

 まず拘束具。

 動物実験での経緯から想定外の事態が発生した場合、被験者が暴れて怪我を負うのを防ぐためには不可欠だ。

 次に薬剤を自動注入する装置も要る。

 人間に注射する行為は医療行為に相当するため、資格がない人間が行うと傷害罪として立派な犯罪になる。

 実験でよい結果を出しても刑法に抵触するものをレポートとしては提出できない。

 だから香澄に注射してもらう手段はとれず、京一郎が拘束されながらも自分で自分に注射しなければならないのだ。

 自分に注射を打つことはあくまで自傷行為であって傷害には当たらない。

 糖尿病患者のインシュリン注射などを鑑みればわかりやすいだろう。

 今回の実験の手順では被験者の京一郎がまず自分の腕に注射針を刺し、椅子に拘束された後、手元のリモコンで装置を動かし薬剤を自動注入するという方法を取らなければならなかった。

 被験者のデータを記録するための計器類も当然必要だ。

 データが取れなければレポートが書けないし、レポートが書けなければそもそもこの実験をする意味自体がない。

 また被験者のバイタルサインをリアルタイムで監視していなければ、問題が生じたときに被験者を殺しかねない。

 あくまで実験は安全第一が鉄則なのである。

 臨床試験のためにこれらの装置はすでに研究室で購入済みであったため、ばれないように実験室へ運びさえすれば問題なかった。

 最後に肝心な薬品類の準備だ。

 京一郎の開発したオーガニックナノマシンとそれを安全に投与するために必要な緩衝剤はいつも他の薬剤と一緒に鍵付きの保管庫で厳密に管理されており、使用するときは事前に申請が必要であった。

 それは開発者である京一郎すら例外ではない。

 京一郎が馬鹿正直に申請を届け出れば無断で実験をしようとしていることが誰にでも丸わかりだ。

 だから、ここで香澄の協力が重要になってくる。

 香澄が自分自身の研究のために実験を行うという名目で薬品を持ち出すのならば、誰にも怪しまれないからだ。

 これら非常に面倒な一連の手筈を整え、ついに実験当日の夜が来た。


 ******


 夜の十時前。

 人気のない実験室で、分解して運んできた拘束椅子を一人で組み立てる京一郎の姿があった。

 本来はボルトで床に留める土台を、強力なダクトテープで代用して固定しているところに、ノックして香澄が入室してきた。

 京一郎は作業を止めずに香澄に尋ねた。

「学生たちはどうだったかね?」

「先生の思惑通り、会議室で盛り上がっていますよ」

「そうかそうか」

 まずまず順調に状況が推移していることを確認し、京一郎はほくそ笑む。

「誰からこういう悪知恵を教わったんですか?」

「私の同僚にそういう頭だけはよく回る奴がいたんだよ。肝心の研究の方はからっきしだったがね」

 京一郎がそう言う間にすでに椅子は組み立て終わり、次いでの装置類も的確にセッティングが終わる。

 実験の準備に関しては普段から慣れている香澄から見ても、その手際の良さは関心に値するものだった。

「よし、こんなものか」

 人間一人をしっかりと拘束できる頑丈なリクライニングチェアと、その横に置かれた長机に整然と並べられた計器及び薬剤注入装置、その装置へ薬剤を送る点滴棒などなど。

 ここに無いものは香澄が今持ってきたばかりの薬剤瓶だけだ。

 京一郎は香澄から薬剤を受け取るとすぐに注入装置周り準備を始める。

 まず、薬剤をビニールバッグに封入した物を二つ用意した。

 当然、これがオーガニックナノマシンと緩衝材の入った溶液である。

 区別がつくようにオーガニックナノマシンの側には食紅でピンクの色が付けられている。

 二つのビニールバッグを点滴棒にぶら下げて二股のチューブを接続、コネクタの末端まで混ざった薬液が満たすのを確認すると、もっとも慎重にならざるを得ない注射の準備を始めた。

 器用に右手だけで自分の左の上腕部をゴムバンドで縛り、目的の静脈を浮き出たせると右手にディスポーザブルのビニール手袋をはめ、そこをアルコールで消毒する。

 そして京一郎は何の躊躇もなく注射針を打ち込んだ。

 蝶ネクタイの形をした注射針に血が遡っていくのを見計らうと、針が決して動かないよう幅広のフィルムでしっかり固定、針から延長されたゴムチューブは医療テープでゆるめに固定した。

 点滴側と注射側のチューブのコネクタを互いに接続し、点滴側のチューブを自動注入装置のローラーポンプにセットする。

 そこまで一人でやりきって初めて京一郎が香澄に助けを求めた。

「さて、ここからは君も手伝ってくれ。私一人じゃ自分を縛りきるのは無理だからね」

「そうですね、わかりました」

 左腕にチューブを繋いだまま、拘束椅子に腰を下ろした京一郎。

 脳電位計に繋がったヘッドギアをかぶり、マウスピースをはめ、両足や腰くらいは自分で固定したが、さすがにそれ以上の作業は香澄が行わなければならない。

 前腕、上腕、胸元、肩回り、ヘッドギアとヘッドレストの接続。

 京一郎の自由が次々に奪われていく。

「さすがに香澄君は手際がいいな」

 京一郎ほどではないが、香澄も研究室では抜群に技術の高い人材である。

「先生ほどじゃありません。ああいう手際の良さには何かコツでもあるんですか?」

「事前にマニュアルを読んでおくくらいさ。あとは経験で補うしかない」

「その程度でいいんですね」

「実験の信頼性を担保するのは準備の正確性でしかないからな、準備こそ本番より重要だよ。準備が完璧な実験を失敗しても、それは一つの結果が出るにすぎない。だが、適当に準備された実験では結果どうこうよりも実験そのものの意味が無くなる」

「そうですね」

「そこを履き違える奴が結構多くてな——」

「……そろそろギャグを閉めますよ」

「ああ、すまない。やってくれ」

 棒状の口枷を噛まされ、伸びた紐を首の後ろで縛られる。

 もはや京一郎の自由が利くのは手指だけだった。

 右手には薬液注入装置のリモコンが握られている。

 それは親指で上部のダイヤルを回すことにより薬液の注入速度を操作できる物だ。

 また、緊急コール機能もあり、人差し指でトリガーを引くことで大音量のブザーがなる仕組みになっていた。

「終わりました」

 香澄は極めて無表情に、作業の終わりを告げた。

 京一郎は彼女に目配せで礼をすると、壁に掛けられた時計を見て時刻を確認し、カチカチとダイヤルを軽く動かした。

 注入装置のローラーポンプがゆっくりと回り始める。

 薄ピンク色になった溶液が京一郎の静脈に少しずつ注入されていく。

 京一郎は冷たいものが腕から身体を上ってくるのを感じた。

 緊張はしていないわけではない。

 だが、極めて落ち着くように努めた。

 目を閉じて心音と呼吸に集中しリラックスを心がける。

 どれほどの時間が経過したか、突如視界に閃光が走った。

 眼を見開き、無意識に胴体が跳ねる。

 頭痛を感じたのはその直後だ。

 脳味噌を生きたまま直接切り裂かれる、そんなイメージを感じる痛み。

 もちろん、脳そのものに痛覚はないのでイメージでしかない、だが確かにそう伝えるしかない痛みだった。

 京一郎は激痛の中、激しく混乱した。

 脂汗を垂れ流し、身体が無軌道に跳ねまわる。

 自由の利く両目を必死に動かす。

 その目が傍らに居る香澄を捉えた。

 笑っている。

 熊野香澄は、めったに見せない笑顔でこちらを見ていた。

 彼女は京一郎の耳元に顔を寄せるとこう囁く。

「先生、とーっても痛いでしょう。実はですね、あの緩衝剤はただの生理食塩水だったんです」

 何を言っているんだ、彼女は。

 理解が出来なかった。

 その一方、自分が握っているリモコンのことを思い出す。

 人差し指で思いっきり力を込めてトリガーを引いた。

 しかし、想定されたブザーは少しも鳴らなかった。

「残念でした。そのリモコンは実は3Dプリンターで作った物です。本物はほら、今も私が持っていて、先生の操作に合わせて動かしていたんですよ。事前にそれくらいは確認しておくべきでしたね」

 ダイヤルを回して見せつけると、装置のローラーポンプも動きを合わせた。

「——!!」

 口枷を噛まされ、声にならない声で抗議する京一郎。

「何故こんなことをしたのかって、言いたそうな目ですね。まぁ、先生には直接的な恨みとかはあまり無いんですよ。これはただの義理みたいなものなんです。高嶺長治っていう同僚のこと、先生はあまり覚えていないかもしれません。実は私の本当の名前、高嶺香澄って言うんです」

 無表情で香澄は独り言を続ける。

「高嶺長治は私の兄でした。でも、先生との才能の差に絶望して精神を病んで休学して、最後には自ら命を絶ちました。それが原因で両親も離婚しまして、私は母方の旧姓を現在名乗っているんです。先生にはとんだとばっちりだと思えるでしょう。私だってそう思います。でも、兄は『深山京一郎さえいなければ』ってそれだけを書き残して逝ったんです。さぞ無念だったんでしょうね。私も兄を救えなかった人間の一人に違いはなくて、だからせめて兄への餞別として先生に復讐してあげたい。そういうことなんです」

 京一郎には彼女のことが何一つわからなかった。

 これまでも、今この瞬間も。

「動物実験での生存率は1割でしたよね。先生も生き残れるといいですね。きっといい結果がでますよ」

「!!!!!!っっ」

 京一郎は腹の底から絶叫した。

 だが、それはすこしも外には漏れなかった。

「では、時間が勿体ないので速度上げますね」

 香澄がダイヤルを大きく回した。

 薬液がどんどん注入されていく。

 京一郎の視界の明滅が激しくなる。

 痛みが激しすぎてもはや思考すらできない。

 ただただ苦しい。

 そして、京一郎は意識を手放した。










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