第3話 改心の一撃

「くそっ‼︎」

 京一郎が自分の席に戻ってきての第一声がそれであった。

 彼は准教授に割り当てられた個室に戻るやいなや乱暴に椅子に座ると、デスクに肘をつきながら頭を抱えた。

「俗物どもが、土壇場で怖気づきおって……」

 オーガニックナノマシンの研究当初は学部レベルで注目された研究だった。

 資金も設備も人員もいくらでも要求が通るほどに期待が高かったのだが、風向きが変わったのはやはりあの動物実験の一件からだった。

 京一郎の開発したオーガニックナノマシンは脳細胞からの信号で制御される設計だ。

 実験室レベルでは培養された脳細胞とナノマシンの接続に何ら問題がないことを確認していたが、いざ動物実験を行うと、投与された動物が急に暴れ出し、死亡することが相次いだのだ。

 当初、死体を解剖しても原因が不明であったが、投与の一部始終を脳電位計を付けた状態で行うことで次第に何が起こっているのかが解明された。

 意外に思われるかもしれないが、神経の塊であるはずの脳細胞自体に痛覚は存在してはいない。

 頭痛の原因はあくまでも頭部の毛細血管と筋肉の中にある痛覚神経が引き起こしている。

 今回の件では、脳細胞にナノマシンが定着する際に近傍の脳血管が活性化したのだが、膨大なナノマシンの定着が脳全体のランダムな位置で一斉に行われるため、脳血管がいびつに軋み、それが発狂するほどの激痛を引き起こすことが判明したのだ。

 このメカニズムは生体実験in vivoを行わなければ決して発見できない事象であった。

 これに対し、京一郎はナノマシンの定着を緩やかにする緩衝剤をナノマシンと同時に投与することで解決し、もはや血管の軋みが起こらないことをニホンザルの実験で証明した。

 ……確かにすべての問題は解決したのだ。

 だが、動物実験でそれなりの数の動物が死亡した際に、それまで京一郎をもてはやしていた人々の間に少なくない不信感が広がってしまった。

 潤沢だった支援も干上がり、実験動物の確保にすら苦労する始末。

 都合のいい時だけ持ち上げ、旗色が悪くなったとみれば見捨てる。

 それが人間の、社会の仕組みというものなのか。

「教授会、私よりただ先に生まれただけの老害どもめ……私の一分一秒は貴様らの十年よりも貴重だというのに……」

 かつてはいざしらず、今は才能も尽きたボンクラが金と権力だけは握っている。

「望むだけ金を渡せとは言わん。だが、私の邪魔をするのは心底許せん」

 京一郎は理不尽と不条理と非合理が大嫌いだった。

 もっとも、彼にとってのではあるのだが。

「あと一つ、実験さえ……さえ出てしまえば全ての面倒など一掃してくれるのに、何か方法は無いものか……」

 いつまでも尽きない恨み節を漏らし、ひたすらに怒りながらも、一方の頭では何らかの手立てはないものか、思案を巡らせいるのが京一郎の性格ではある。

 どれほどの時間が経ったか、コンコンと部屋の戸がノックされた。

「失礼します」

 その言葉と共に、控えめに見ても美人と呼ぶに相応しい女性が入室してきた。

 大学生という雰囲気ではない。清楚なブラウスとロングスカートがよく似合う大人の女性だ。長い髪を靡かせ彼女は胸元に分厚いファイルを携えて京一郎のもとにやってきた。

「……香澄君か、どうした?」

 熊野香澄くまのかすみ、大嶋研究室で助手をしている才媛である。

「どうしたも何も、昨日先生に頼まれた実験計画書をまとめてきたんですよ」

「ああ、そうだったな。すまない」

 京一郎は自分が頼んでおきながら、教授との面談ですっかり忘れていたのだった。

 彼女が持ってきたファイルを受け取ったものの、計画すべき実験が消滅している現在、彼女に全くもって無駄な仕事をさせてしまったようなものだった。

「先生、顔色がすぐれませんね。何かあったのですか?」

「そうか……申し訳ない。教授から次の実験中止の話が出てね。このファイルもしばらくは出番がなさそうだ」

 あくまで悔しさを表に出さず、謝まる京一郎。

 しかし、彼女は特に怒ってもいないようだった。

 なぜなら、言われたことをきちんとこなすことが彼女の仕事で、それが結果を出すかどうか自体はあまり関係のないことだったからだ。

「そうでしたか。まぁ、そんな予感はしてました。この頃、うちの研究室の扱いは何だか変な感じでしたからね」

「君にもわかるくらいだったのか」

「それはもう。むしろ、今まで先生がよく折れなかったと感心しています」

「君に褒められるとは珍しいこともあるものだ。君はもっとドライなタイプだと思っていたよ」

「わたしは仕事には私情を挟まないようにしているだけです。余計な感情は研究の邪魔になりますから」

「その通りだな。科学においてモチベーションがあるに越したことはないが、功を焦ればミスが増え、先入観は視野を狭窄し、余計な願望はデータを恣意的に誤読させる。人間とは実に難儀なものだ」

「人間は本質的に科学というものに向いてはいないのでしょうか?」

「かもしれない。だが、科学者は決して一人では無い。諸々の問題は相互の指摘により修正され正しい結論を導くように学会のような仕組みが作られているのだ。ただ、学会というシステムもすべてが正しく機能するわけではないが」

「特に先生の場合は、学会に異論を唱えては既存の概念を打破してきた実績がありますからね」

「学会が権威に成り果てれば、誰かがそうしなければならない。科学とは常にアップデートを必要とするものだからな」

「ポパーの反証可能性ですね」

「そうだ。ゲーテルの不完全性定理によれば論理的に完璧な公理系など存在しえないし、あらゆる理論は現実が優先するのだから」

 香澄との対話で多少ならず冷静さを取り戻した京一郎は、自分の発言がそのまま今の状況を的確に指摘している皮肉に気がついた。

 大嶋教授の言ったことは何も間違ってはいない。

 功を焦り、他を顧みず、自身の無謬性を妄信していたのはまさにその通りではないか。

「どうしました、先生?」

「いや、亀の甲より年の劫とは良く言うものだなと思っただけさ」

「話のつながりがよくわかりませんが」

「これからの実験には信頼が一番必要だと教授は言っていたんだ。教授会を説得するにも今の私にはそれが足りない。では、どうすれば信頼を勝ち取れるのかを考えるべきなのだ」

「データの信頼性ならば統計的に数字を積み上げるしかないと思いますが」

「そういう次元の問題ではないんだ。科学とは常に目隠しをして歩くようなものだ。みんな次に踏み出す一歩が確かな足場の上にあるのか、その確からしさのようなものが欲しいのさ。既存のデータの信頼性をいくら上げても結局のところ今まで歩いてきた道を舗装することでしかない」

「そういうことなら、その踏み出す先に手すりでもあればいいんですかね」

「手すりか……」

「参考実験をしてみたらどうでしょう? 正規の実験は止められていますが、先生の個人的な実験までは止められていないはずです」

「しかしな、臨床は人間を相手にしなければならない実験だ」

「先生がを実験台にすれば誰も文句は言わないのではないでしょうか」

「確かにその方法は考えていなかったな」

 京一郎は無意識に自分自身をリスクに晒すことまでは考えていなかった。

 真に正しいと自分を確かに信じられるなら、そのリスクは自分が率先して一番に請け負うべきではなかったか。

「やるとしても大嶋教授は止めるだろう……しかも、実験の手順的に私一人では実験はできない。だれかの手助けがいる」

「手伝いくらいなら私はやりますよ」

 やれない理由はなくなった。

 あとは京一郎自身の決意の問題。

「……わかった。この実験計画書をたたき台にして、参考実験を行おう」

 想定としては準備には二、三日はかかるだろう。

 大嶋教授に気づかれず、邪魔されない必要もある。

「実験日時は三日後の午後十時にしよう。香澄君の都合は大丈夫か?」

「ええ、大丈夫ですよ」

 もう後戻りはできない。前に進むだけだ。

 京一郎は腹を括った。

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