第5話 知らない天穹
彼は気付いたとき、青空を見ていた。
身体には全く感覚がなく、何もかもが現実感を失っていた。
とても静かで穏やかだった。
結局、私は死んだのか。
京一郎はふと柄にもないことを思ってしまった。
じゃあ、今の私は何なのだ。
死んでいるとしたら、今現在思考している自分は一体何の機関を使って思考しているのだ。
物理的に脳を失った人間が何かを考えることなどできはしない。
そうでなければ、脳が傷ついて人格が変容する理由を説明できない。
もし、人間に思考を代替する機関があるのならば、たとえ脳を欠損してもバックアップとして人格を補うはずだ。
だから、世間一般でいう霊魂というものが仮に存在するとしても、それは思考を担うほどの存在ではない。
肉体から霊魂とやらが分離して肉体の消滅後もこのような鮮明な自我が存在するなどありえない。
だから、こんな死後の世界など存在するはずがない。
つまり。
「私は生きている」
京一郎がそう確信すると、彼は自分の全ての感覚がゆっくりと戻りつつあるのを認識し始めていた。
服が肌に触れる感触、鼻をくすぐる匂い、口の中の潤い、耳をかすめる音、いわゆる五感すべては正常に機能している。
指が動く、手が持ち上がる。
自身の顔に触れると少し伸びた髭の感触があった。
それは彼が生きている証拠だ。
頭痛はもう感じない。
身体はひどく鈍っているように重いが、起き上がることができないほどではなかった。
上体を起こす。
そして自分の周囲を初めて見回した。
「どこだ、ここは……」
目の前の一面に広がる草原。
確かに先ほどから手に触れた地面の感触、風に揺れる草木の音や、独特の青臭い匂いが感じられていた。
ここが、どこかの草原なのは間違いない。
視界の端に目を疑う物があった。
「あれは月……なのか?」
空に白く霞む丸い天体はたしかに月のように見える。
しかし、その大きさがおかしい。
普段見慣れた月の十倍ほどの大きさがあった。
月面のクレーターが形作る模様も見たことがない。
「少なくともここは地球ではないのか」
おおよそ理解が出来ない。
実験室で意識を失った自分が着の身着のまま、どういう過程を得てこんな場所にいるのか。
だが、これは現実だ。
「理解はできないが、納得はしなければならないということか」
そういえば実験の結果はどうなったのだ。
もし、成功しているのならば……
京一郎は目を閉じて。瞼の裏で四角形を描くようにイメージした。
するとそれは明確な像となって表示が固定される。
目を開けてもその四角い枠は表示されたままだ。
「ははは、これは見事だ! 設計通りに動く!」
京一郎が作ったナノマシンはしっかりと彼の脳に定着し、正常に機能していることを示していた。
臨床試験前は、動物の脳に接続した電極でナノマシンには間接的に命令を下すことしかできなかった。
しかし、今それは京一郎の思い通りに動かすことができるのだ。
その達成感は段違のものであった。
あとはその四角い枠——コマンドウィンドウを意識して頭の中でコマンドを入力するだけだった。
/OPEN CURRENT CONDITION
>/MACHINE FIXTAION RATE
_99.8%
これはほぼ完全にナノマシンと脳は一体化していることを示している。
続いて余剰量の確認が必要だった。
脳にナノマシンが定着しただけでも脳内コンピューターとして十分に意味はあるのだが、ナノマシンの性能はそれだけではない。
彼の開発したオーガニックナノマシンは自由分化、つまりどんな物にも変化しうることが最大の特徴であった。
例えば、脳で行うデータ処理のほか、酵素の代替としての化学物質生成、分子モーターとして機械的パワーを発揮するなど。
その可能性はまさに無限大だ。
ただ、特定の機能に一度固定化してしまうと他の機能には変更できない上、複数個が連結しないと高度な機能を発揮することができない。
デフォルトでは脳に定着し、データ処理と他のナノマシンへの命令送信機能が設定されている。
すでに脳に定着したものは他の仕事はできないのだ。
脳への定着で溢れたナノマシンだけが他の機能へと変化することができる。
>/MACHINE EXCESS QUANTITY
_0.2E-20mol
コマンドで確認したナノマシン余剰量は約1200個ほど。
正直この量は少なすぎだ。
実験で用意したナノマシンの量は約1兆個。
脳細胞は約2000億個でなので脳細胞1つ当たり5個程度の定着が行われたことになる。
ちなみに全身の細胞数は60兆個である。
脳細胞のように細胞1つ当たり5個の定着を全身で行うためには
現在の余剰分を2500億倍にまで増やさねばならない。
「マシンを体内で増殖させる必要があるな」
体内で効率よくナノマシンを生産するためには、分泌系の臓器を改造するか、細胞分裂の活発な細胞を改造してしまうのが一番だろう。
自分の体内で一番それに適した臓器、それは生殖細胞。
つまり睾丸だ。
「どうせ二つある物だ、半分くらい失っても問題あるまい」
こういう決断の速さが彼の持ち味である。
まず頭の中でナノマシンを組み立てる。
それは指定量の生殖細胞の遺伝子を分子モーターで次々に組み替えていくものだ。
遺伝子を組み替えられた細胞は精子の代わりに人工細胞を生み出す物に変化する。
この人工細胞は細胞小器官の代わりに大量の未分化ナノマシンを内包しており、古い精子を体内吸収する機構を通じて身体の内部に取り込まれ、それと同時に細胞膜が破れてナノマシンを放出する。
それらのナノマシンは血液に混ざり全身にいきわたり、次の命令を待つのだ。
臨床試験前にナノマシンの実用モデルをすでに研究していたため、ナノマシンの組み立てに関しては全く問題が無かった。
「処理、実行……!」
脳内でコマンドを打ち込むと、大脳近傍に僅か1200個しかないナノマシンが設計どおりに組み立てられ血液循環と共に精巣へと向かっていく。
血液の循環時間は平均約30秒。
定着はすぐに始まる。
あとは完了するのを待つだけだった。
……のだが。
「何か忘れているような気がする」
科学者としてのセンスが何かを訴えていた。
それは違和感となって現実の物となる。
「股間が……痒い……」
ああ、そうだった。
彼は自分の愚かさを悔いた。
今、彼の体内に緩衝剤は無いのだ。
つまり、脳で起きた現象が精巣でも起こるのならば。
ただでさえ精巣は痛覚の過敏な場所である。
よって。
「うがああああああああ!」
草原に絶叫が響き渡る。
京一郎は股間を抑えて悶絶し、草原を転げまわった。
それは脳ほどではないが、耐えがたい激痛であることには違いなかった。
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