2 名なしの島

名なしの島①

 日本人の多くがヨットの単語かられんそうする船はなんだろう? 小型のはんせん? 春雄から「おれの船はヨットなんだよね」と聞かされた彩が、そのとき真っ先に連想したのは、たてを張った小さな船だったが、よくよく考えてみれば英語で小型の帆船はsailboatセイルボートだ。もしくはsailingセーリング boatボートsailingセーリング dinghyディンギー。実際のところ春雄のヨットは帆船ではなく、日本だと「クルーザー」だとか呼ばれがちな船だった。

 一部上場企業の社長を務める父親に買ってもらったそうだ。去年の春雄の誕生日に。すごい家庭だ。広々とした複数のキャビンと屋根付きのフライブリッジを備えた船だった。ぜんちょうは三十メートル弱、ぜんぷくは七メートルほどのとくちゅうラグジュアリーヨット。


 二〇二九年、七月二十八日、土曜日。十五時四十分。

 ところどころ雲は出ていたが、空は晴れている。がんにはぼうばくたる海。それらをいちぼうできるフライブリッジに窓はなく、午後のようこうをまとったしおかぜが絶えず流れこんでくる。風の音、波の音、エンジンの音。Tシャツにしちたけのズボン、くつはスニーカーの彩は、フライブリッジこうほうのL字型ソファに身をゆだねていた。すわごこばつぐんのソファの前には、ドリンクホルダー付きの木製テーブル。ソファともども床にしっかりと固定されていて、ついさっきまではここに、すみれと慎吾の元カップルもいた。


「春雄先輩。名なしの島がじつざいするとして、あとどれくらいで着くんですか?」

 フライブリッジ前方のそうじゅうせきからのぞく丸っこい背中に彩は声をかけた。


「ああ……そうだな。二、三十分ってところかな」


 そでをまくった白いYシャツに、ゆったりめのハーフパンツ。靴はサンダルの春雄が「つうか、すみれと慎吾はどこ行ったんだよ?」と訊きながら、彩にちらとふり返った。


「寝室!」強めに吹いた風の音に負けじと彩は声を張る。「お昼寝、どっちも!」


 昨日は予定どおり九十九里浜に近い春雄の別荘に前泊した。で、飲みすぎた。春雄は船の操縦があるのでビール一本でやめたが、元カップルのふたりは交際していたときの話に花が咲きまくってでいすい。彩も二日酔いではないものの、頭がいささか重くなる程度には飲んだ。


「昼寝とか嘘だろ。んなもん、楽しいことしてるに決まってんだよ。うらやましいなぁ」


 横揺れをけいげんするジャイロスタビライザーのおかげで船の乗り心地は悪くない。わいな想像にふける春雄は気持ち悪いが。


「してませんよ」彩は春雄の見解にかいてきだ。「そんなこと」


 すみれと慎吾は関係がマンネリ化して別れた。元カノのほうはそのことをもうれつこうかいしており、よりを戻したいが、すみれにふり回されがちだった慎吾にふくえんの選択肢はなさそうだ。すみれは自分から積極的に押し倒すタイプではない。りゅうした筋肉ときょが野性的な慎吾も中身は典型的な草食男子。あのふたりなら本当に酔い覚ましの昼寝だろう。

「それよりも!」風が強い。「島がなかったら引き返しましょう! 台風、心配!」

 日本のみなみかいじょうで発生した台風五号は昨日、九州でもうをふるったあと今朝十時すぎに四国と関西の一部をぼうふういきにとらえた。予報では明日の夜あたりに関東にも上陸するそうだ。


「大丈夫っ! 島で一泊することになっても、明日の夕方には別荘に戻れるって!」

 春雄は楽観主義者だが、彩は全然そうではない。「夕方は、ぎりぎりすぎます!」


「別荘から車で都内に戻っても間に合うって! やばそうなら別荘にもう一泊すりゃいいよ。それに今回の台風、そろそろおんたいていあつに変わるんだろ、早けりゃ明日にでも!」


 たいへいらくを並べ立てる春雄の気分をはんえいしたかのように、強かった風が少しはやわらいだ。


「温帯低気圧に変わっても、すぐに弱まるとはかぎらないそうですよ」

 しょうほうはそう言っていた。「強めの雨と風がつづく場合もあるって」


「この船は速いんだよねぇ。本気出せば、すぐに帰れるから」


 本気を出すことなく、適当にクルージングして引き返せるならそれが一番だと思う。一度は付き合うと決めた無人島行きだが、台風が直撃するとわかって彩はほんした。一昨日に中止をしんげんしたものの、春雄はちっとも聞き入れてくれない。それどころか「彩は海外でサッカー観戦したくねえの? 無人島行きがヨーロッパ旅行のチケットですよ」とおどされた。ほんとクソみたいな先輩だが、親ゆずりなのか、優秀な商売人としてのさいかくが春雄にはある。試合は観たい、ヨーロッパにも行きたい彩は、れつではあっても相手の交渉の上手さをしぶしぶながら認めざるをえなかった。仕方なく脅しに屈して、こうしてついてきた次第だ。


 ついてはきたが、島なんぞなくていい。台風に巻きこまれる前にさっさと帰りたいとひそかに願いつづけていたら、「あっ」とおもわず声が出た。絶対に見つけたくなかった島が、彩のに引っかかったからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る