第一章 熊田彩と名なしの島

1 熊田彩

熊田彩①

 くまあやの身長は一六五センチ、今日はあつぞこのブーツだからプラス数センチ。ぼうがつきにくい細身と手足の長さは元モデルだった母親からのでんだろう。ベージュ色の夏物のジャケットに同色のショートパンツが、われながらお似合いだった。


 顔も超美人だ、寝不足だったとしても。人前では絶対に口にしないが、まぎれもない事実。寝不足なのも事実だった。昨日の夜、寝つきの悪さを解消するために読みはじめた分厚い推理小説が面白すぎたのがいけない。昼すぎまでかかってどくりょうしたせいで、トイレの鏡に映りこんだ彩の顔にはうっすらくまができていた。こつまでのばした黒髪も寝不足のせいかつやとぼしい。しだれやなぎみたいで気に食わないが、それでも圧倒的に美人。大学三年生の二十歳にしては少し大人っぽい感じのぜっせいの美女、というのが彩のぶんせきだった。


 こうていかん、自己肯定感。いつものように鏡の前でさんしてから、彩は腕時計で十九時すぎの時刻をたしかめつつ、バッグを肩にかけて居酒屋のトイレから出た。


「長かったな。か?」


 最低……。そこそこ広いたたみきの個室に戻ってくると、デリカシーのない発言が彩の頬をぶった。こんなカスみたいなしつげんができるのは、この場にひとりしかいない。はる。この男は出会ったころからずっとこんなふうだ。いつだって緊張感のない春雄の丸い顔を、彩はしきに座りながらにらみつけた。


しょうなおしです。かんぱい、まだですよね。飲む前から酔ってるんですか、先輩は」


 思ったことをすぐ口にする春雄は、彩と同じ学部で同じ学科の三年生。しかし留年をくり返しており、いま二十四歳だ。学年は同じでも先輩。春雄ががくの高いだいゆうな留年生活をまんきつできているのは大金持ちのボンボンだから。


 そのボンボンの第一印象は、短めの黒髪、中背、あとは――ふくよかなタヌキだった。タヌキ、これはほめている。彩は動物が大好き。タヌキのせいたいについてはよく知らないが、見た目は愛らしいと思う。


 もちろん、春雄に特別な感情を抱いたことなどない。りょせんさいとはほど遠く、ゆえに今後も恋愛関係に発展することなどごくに落とされるのとえにしてもありえない相手だが、年上の友人としてなら、ぎりぎりあり、という評価の春雄とは、彩が大学に入学してまもなく知り合った。講義が終わったとたん前の席に座っていた学生ふたりの会話がたまたま聞こえてきたのだ――そのうちの片方が春雄で、もう片方はいなしん。ふたりはサッカーの話をしていた。イングランド、プレミアリーグの。


 学生時代にイングランドに留学していた父の影響で彩もプレミアリーグが大好き。当時は大学に友だちがひとりもいなかったから、つい口をはさんでしまった直後、彩のとなりにいた女子学生のやまかわすみれまで参加してきた。そのときの会話が思いのほか盛りあがってしまい、気がつけば自然とその四人で集まるようになったのだ。


 今日もそう。二〇二九年、七月二十五日、水曜日。春雄がまたなにか思いついたらしい。


「本日をもちまして全員が前期試験を終えました。今日から夏休みだ。めでたいねぇ!」


 びんビールが二本と四人ぶんのグラスが運ばれてくる。全員のグラスにビールをそそぎ終えた春雄が「めでたい」とくり返しながら拍手した。彩、すみれ、慎吾もせいだいに拍手する。


「で、ここからが本題な。実はさ、おれの船で行ける距離に無人島があるんだよ。たまには都会を離れて天然のビーチでのんびりしたくね? 無人島でキャンプ。どう?」


 どう、と言われても。乾杯のあと、彩は梅干しをほおったときのような渋い顔をした。


「え、なにその反応? 彩ちゃんってば。彩はひまだろ。ひとり暮らしなんだし」

 ひとり暮らしだからって暇とはかぎらない。彩だけでなく他のめんめんもひとり暮らしだ。


「ひとり暮らしだとおまりしやすいじゃん。行こうよ、無人島に。ね? ねぇ?」

 春雄が持ち前の押しの強さを見せてくる。「さっそく今週末、どう? 一泊二日」


 今週末とか、さっそくすぎるだろ、と思いつつじゅうめんを維持した彩は、「どうせなら有名なリゾート地がよかったな」と乗り気ではない本心を意外とこつに伝えたつもりだ。


「え、定番の観光地がお望みなら連れていくけど。りょも全額おれが払うよ」


 春雄のドヤ顔がちょっとムカつく。「余裕だよ。金持ちをなめるな。でもさ、まずは無人島で遊びたいんだよ。動画でそういうのて楽しそうだったんだ」


 春雄はきょくのミーハーだ。みんなが好きなアイドルを好きになり、大ヒットしたアニメ、映画、ドラマを視聴する。インフルエンサーから受ける影響もすさまじい。彩はそうではない。「その動画で観た無人島に行くんですか?」と露骨に冷めた声を出した。


「いいや」

 春雄は首を横にふる。「地図に載ってねえ無人島があるんだよ。ネットの噂によると」

「ネットの噂……」彩の眉がピクピクする。島には名前すらないと言う。「ネットの?」


「そう! ネットだとな、たしか〈名なしの島〉って呼んでるやつがいたな。千葉の房総半島。あそこからもっと南東に下っていった太平洋沖にあるんだってさ、名なしの島が」

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