第3話

 次の日の朝は曇り空だった。朝食を食べながら見ていたテレビの天気予報によると午後から雨が降るらしい。

 今日は遠回りして帰らないといけないというのに面倒なことだ。

 私は朝食のトーストを食べ終わるとお母さんよりも一足先に学校へと出発した。


 学校には昨日の事件のことは伝わっていないようだった。いや、学校には連絡が入っているのかもしれないけど、私の周りにはその情報は流れていないようだ。

 午前の授業が終わり、昼休みが終わってもう午後の授業が始まろうという時間にもかかわらず、私に昨日の事件のことを聞きに来る人は誰もいない。

 昨日は質問攻めにされたらどうしようかと思っていたけれど、心配のしすぎだったみたいだ。そもそも聞かれたところで知っていること以上のことは話せないのだけど。


 予鈴が鳴り、教室の中が慌ただしくなる。

 私も教科書とノートを机の上に出し、窓の外を眺める。

 空には分厚い雲が広がっている。今にも雨が降り出しそうだ。

 そう思っていたら窓に雨粒が当たった。そのまま眺めていると見る見るうちに雨足が強まり、窓に水を流したような状態になった。


 買い物に行くのをやめようかな。

 窓の外の景色を見ているとふとそんなことを考えてしまう。けれど、防犯ブザーを買って帰らないとお母さんが心配するだろう。それにすでにお金ももらっている。

 そんなことを考えていると本鈴が鳴り、先生が教室に入ってきた。




「うわぁ、土砂降りだ」


 校舎をから出ようと外を見てつぶやく。

 どうやら午後から降り出した雨は弱まることなく、むしろ強くなっているようだ。

 心の中でため息をつきながら傘を広げる。これから家電量販店へ行かないといけないのに。

 スマホを取り出し、事前に調べていた地図を確認して校舎を出る。家電量販店までは学校から歩いて20分ほどだ。



 家電量販店の中に入ると天気のせいか人が少なかった。

 入り口のフロアガイドを確認して目的の売り場を探す。セキュリティコーナーは1階のレジ近くにあるようだ。

 売り場に移動して商品を眺める。

 単純な円形や楕円形のものにキャラクターをかたどったもの、色も赤や青、黄色など実に様々な商品が並んでいる。

 値段は1000円から3000円程度のようだ。やはりキャラクターをかたどったものが高い。

 私はピンクのハート形をしたキーホルダー状防犯ブザーを選んだ。

 少し可愛すぎるかもと思ったものの、自分が気に入ったものを選ぼうとそのままレジまで持っていった。


 会計を済ませ、店の入り口で防犯ブザーをカバンに取り付ける。

 家に帰ってからでもと思ったけれど、せっかくだからとすぐに付けることにした。

 カバンに揺れるハートが可愛い。

 なんとなくうれしい気分になって店を出た。




 降りしきる雨の中、家路を急ぐ。

 店を出たときは少し雨足が弱まっていたのに、また強くなってきたようだ。

 風も出てきたようで濡れた制服が肌に張り付いて気持ち悪い。

 早く家に帰って暖かいお風呂に入りたい。


 曲がり角を曲がり、細い路地に入る。

 まだ18時になったばかりだというのに、この天気のせいか路地はとても暗い。

 街灯のない路地にポツンと置かれた自動販売機が弱々しい明かりを放っている。

 早く通り過ぎよう。

 カバンを握る左手をギュっと握りしめ、私は足を速めた。


 自動販売機を通り過ぎたときに左肩に焼けるような痛みを感じた。

 驚いて肩を見ると濡れた制服に血がにじむのが見える。

 同時に自動販売機の陰に隠れた細い横道に黒い影が見えた。


 恐る恐る振り返るとそこにはずぶ濡れになった黒いコートの男が立っていた。


「ヒッ」


 恐怖から思わず声が漏れる。

 男はどこか虚空を見つめ、よく見ると右手にはナイフのようなものが握られていた。

 左肩の痛みはあれのせいか。

 痛みに耐えつつ男から距離をとるように後ずさる。


 男はブツブツとよく聞き取れない声で何かをつぶやいている。

 尚も慎重に後ろに下がりつつ、カバンに取り付けた防犯ブザーを見る。

 鳴らすべきか、鳴らさないべきか。

 正直、今の男の様子を見るに余計な刺激を与えるような行動はとらない方が良いように思える。


 ゆっくりと後ろに下がり、男との距離が3メートルほどに離れたところで男と目が合ってしまった。

 虚ろで光を放たなない何も見ていない目。

 その目が私と目があった瞬間に何かを捉えた。


 私はたまらず右手に持っていた傘を男に投げつけた。

 急いで身体の向きを変え、男とは反対へ駆け出す。

 走りながら防犯ブザーを引っ張って音を鳴らす。

 けれど、雨に濡れたブザーはくぐもった音しか発せず打ち付ける雨音にかき消されていた。


「もうっ、使えないっ!」


 走りながら役に立たない防犯ブザーに文句をつける。

 肩越しに後ろを振り返ると男もこちらに向かって駆け出しているのが見えた。


「……さぉり……。……なんで……」


 後ろから男が何かをつぶやいているのが聞こえてくる。

 私は“サオリ”じゃない。関係ないんだから放っておいて。

 そんな私の心の声が聞こえるはずもなく、男は距離を詰めてくる。


 雨に濡れた前髪が顔に張り付き、ただでさえ悪い視界がさらに悪くなる。

 左肩も雨に濡れて痛みがひどくなるばかりだ。

 大通りまでの数10メートルがやけに遠く感じる。

 こんなことであれば本ばかり読まないでもっと体を鍛えておけばよかった。


「キャッ」


 余計なことを考えていたせいだろうか、つまずいて転んでしまった。

 路地の水たまりに身体ごと突っ込んでしまい、制服はもはやドロドロの状態だ。

 すぐに起き上がろうと地面に両手をつく。

 不意に身体に当たる雨粒がなくなった。


 恐る恐る顔を上げる。

 そこには、私に覆いかぶさるように両手を振り上げた男がいた。


 両腕を顔の前に出して頭を守る。

 直後、右腕に鋭い痛みが走った。


「いった……い」


 痛みのあまり泣きそうになる。けれど今はそんなことよりも逃げださないと。

 痛みをこらえて抱えていたカバンで男を殴りつける。

 男がひるんだ隙に立ち上がり、男の顔を目がけてカバンを投げつける。

 私はカバンが男に当たるのを確認する間もなく駆け出した。


 痛みを堪え、後ろを振り返ることなく走る。

 今度はつまずかないよう足元をちゃんと確認して走っている。

 視界の隅を電柱が何本も通り過ぎていく。

 もう少しで大通りだ。


 大通りに出た私は急いで通りを確認した。

 けれど左右どちらにも人はおろか車すら走っていない。

 慌てて後ろを振り返る。

 男はまだあきらめることなく私を追いかけてきていた。


「くっ」


 一瞬の逡巡の後、大通りを右に向かって走り出した。

 こちらに進んでいけば、すぐに駅前の大通りと行き当たるはずだ。

 そこまで行けば、人はともかくきっと車には出会える。


 歩道の水たまりの水を跳ね上げながら必死に走る。

 もうすでに足を動かすのも辛くなっている。

 10メートルほど走ったところで期待を込めて後ろを振り返る。

 けれど、男はこちらに向かって走って来ていた。


「もう、いやっ」


 そう叫びつつも足を緩めることなく走る。

 ここで止まってしまったらどうなるかわからない。

 もし私が殺されるようなことになるとお母さんを1人にしてしまう。

 それだけはダメだ。


 必死に自分を勇気づけながら足を動かし続ける。

 向かい風になったことでさきほどから雨粒が顔に当たり、目にも容赦なく入ってきている。

 けれど、さらに悪くなった視界に大通りが見えた。

 耳にも雨音に混じって車の走る音が聞こえてくる。

 もう少しだ。

 私は交差点を一気に駆け抜ける。


 直後、車のクラクションが鳴り響き、急ブレーキの音が聞こえた。


 私は後ろを振り返る。

 そこには大型トラックに吹き飛ばされる男の姿があった。


 飛んでいく男の虚ろな目が私を捉える。

 瞬間、男は顔を歪めて笑い、イヤな音を立てて潰れた。




 その後のことはよく覚えていない。

 お母さんによると私は歩道に座り込んでいるところをお巡りさんに保護されたそうだ。






―――






 未だに脳裏に焼き付いて離れないあの男の顔を振り払い、私は窓から視線を外す。

 けれど耳には雨音がイヤでも聞こえてくる。


 私は雨が嫌いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はぐれうさぎ @stray_rabbit

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ