桃夭
悠井すみれ
郡主、埋もれる
皇帝の孫娘というのは、さぞ愛され甘やかされるものだろうと世間では思われているかもしれない。でも、必ずしもそうでないのは
何しろ、皇帝の実子である皇子や
(当然のことよね。おじい様の──皇帝陛下の寵愛争いなんて、考えるだけで怖いしめんどくさい)
可愛がられてはいなくても、皇族の一員ではあるのだ。上を見れば切りがないけれど、周りを見渡せば同じように冴えない従姉妹は幾らでもいる。無理に媚びを売らなくても、祖父も、その後を継ぐ伯父の皇太子も、まあそれなりの扱いをしてくれるだろう。
けれど、
衣装だけは軽やかに鮮やかに纏わされた
(確かにおじい様は歌舞と芝居がお好きだけど! 絶対に無理があるでしょう!)
その時々の皇帝によって、後宮でもてはやされる芸事や基準は変わるものだろう。詩だったり、書画だったり、単純な美貌だったり。そして当代の祖父については、
「見るに堪えぬ。下がらせよ」
そうでしょうね、の
祖父のお気に入りの役者の女たちは、姿かたちが美しいだけでなく、ただしゃべるだけの声もよく響いて楽の調べのよう、立ち居振る舞いも柳の枝のようにしなやかで洗練されている。顔と名前が一致しているかも怪しい、とりあえず血が繋がっているだけの孫娘たちが形ばかり真似ようとしたところで、太刀打ちできるはずがなかったのだ。
「老い先短い
「まあ、陛下。可愛らしかったではありませんか」
祖父は、怒っているというよりは心の底からうんざりしているようだった。宥める皇后は、子のいない御方だから、
(でもまあ、これでお母様も諦めてくれるかしら……?)
尊い方々にとって、自分が何でもない存在だと突き付けられるのは寂しく悲しいこと。でも、一方で無駄な歌舞の練習から解放されると思えば安堵もある。足取り軽く、
「
「はい、父上」
彼女たちに向けたのとは大違いの、祖父の熱と愛情に満ちた声に。そして、応じた声の、水晶の鈴を振るような澄んだ清らかな響きに、
皇帝と皇后の御前に、敷物によって簡易な舞台が設けられている。皇族の若い子女が、余興として歌や舞をお見せします、という席だった。
祖父の命に従って進み出たのは、十になるかどうかの少年だった。
染みひとつない白皙の頬に、夜の淵の漆黒を湛える瞳。通った鼻筋にも一分の歪みもなく、化粧もしていないだろうにほのかに紅い唇は、あどけなさと同時に微かな色香を漂わせてすらいる。
桃之夭夭 灼灼其華 若々しい桃 その花は燃えるよう
之子于帰 宜其室家 桃のようなこの娘は 嫁ぎ先で喜ばれる
桃之夭夭 有蕡其実 若々しい桃 その実はふっくらとして
之子于帰 宜其家室 桃のようなこの娘は 嫁ぎ先で喜ばれる
桃之夭夭 其葉蓁蓁 若々しい桃 その葉は瑞々しく生い繫る
之子于帰 宜其家人 桃のようなこの娘は 嫁ぎ先で喜ばれる
澄んだ声が歌うのは、
(それに、この舞!)
彼は、本来は演じる予定ではなかったのかもしれない。纏うのは袖の長い舞衣装ではなく、普段着の
祖父である皇帝の寵愛を一身に集める存在と言うのは、この
(いや、無理でしょお母様……)
無謀と身のほどしらずを思い知って、
(あの子が、陽春叔父様、かあ)
あんなに美しい存在は、後宮に頻繁に出入りする訳でもない
人間離れした妙なる歌舞を披露した少年は、陽春皇子。祖父にとっては末っ子で、
事実、演技を終えた陽春は、皇帝と皇后の絶賛に迎えられていた。
(あの子はきっと、綺麗なお妃をもらって良いところに
帝位に就かない皇族の中では、おそらく最良の将来をほぼ保証された少年を見上げる思いで、
そうして、彼女自身は有象無象のひとりに埋もれて、平凡な人生を送るのだ。
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